三島由紀夫・短編集【鍵のかかる部屋】レビュー|“鍵”と“禁忌”の幻想空間へようこそ
三島由紀夫の短編集『鍵のかかる部屋』(新潮文庫)は、読み始めた瞬間から何かに取り憑かれるような感覚を覚える一冊だ。書き下ろし小説から晩年の作品まで、異様な美意識と死生観、そして危険な匂いが漂っている。
表題作「鍵のかかる部屋」は、三島文学のなかでも**際どさと幻想性が入り混じる“禁断の中篇”**であり、読み終えた後もどこか心に鍵をかけてくる。
鍵のかかる部屋|少女と鍵と、ひとつの目覚め
物語は、エリート青年・一雄と人妻・桐子の逢瀬から始まる。ふたりが愛を交わす場所は、家の奥にある“鍵のかかる部屋”だった。
ところが桐子が病で急死した後、彼女の9歳の娘・房子が一雄を「おじちゃま」と慕い、かつての“鍵のかかる部屋”で再び鍵を閉める遊びを始める。鍵をかける行為は、もはや境界線の侵犯そのものだ。
そして“じゃれつく”という言葉には収まりきらない接触の中で、一雄は肉体的な感応を覚えてしまう。
星空ダンスホールと誓約の酒場|妄想と現実が交差する空間
後ろめたさを感じた一雄は房子との距離を取ろうとするが、今度は女中が房子を連れて彼の職場まで押しかけてくる。「会いたがってるんです」と。
そして一雄は“鍵のかかる部屋”を避けて、房子を戦後間もない新宿・歌舞伎町の“星空ダンスホール”へ連れて行く。まだ舗装もままならぬ空間にぽつんと現れる粗末な踊り場で、少女と男が踊る。
幻想と不穏が背中合わせになった奇妙な幸福感。
そしてもう一方では、“誓約の酒場”という夢が繰り返し彼を襲う。そこでは少女の血で作った酒が提供され、サディストたちが自慢げに犯罪談を語っている。
これらの空間は、三島文学の“妄想の地層”が地表にせり出してきたような、冷たい輝きを放っている。
処女と子宮|子供でなくなった瞬間の神話
ある日、一雄は房子の不在を見計らって彼女の家を訪ねる。しかし房子は学校を休んでいた。しかも、うっすらと化粧を施し、薄着で彼を出迎える。
それでもギリギリのところで理性を保つ一雄だったが、女中からこう告げられる。
「今日、房子に初潮が来ました。…房子は私の子なんですよ。」
子供と女の境界線が唐突に引かれた瞬間、一雄はこの関係を断つことを決意する。
背後で響く“鍵のかかる音”。それは何を閉じ、何を開いたのか。
この「部屋」は、三島にとって単なる密室ではなく、**閉じられた子宮、または幻想のアタノール(錬金炉)**そのものだったのだろう。澁澤龍彦が書いたように。
蘭陵王|最後の短編、最後の祈り
短編集の最後を飾るのが、三島が自決した年に書かれた「蘭陵王」だ。
これは彼が主催した民兵組織「楯の会」の訓練後、若き学生たちが彼の部屋にやってきて横笛を吹くシーンから始まる。曲目は、あの「蘭陵王」。
読めば読むほど、この短編が彼らへの鎮魂であり、祈りであり、別れの儀式のように思えてならない。
三島の日本語、世界に代えがたいもの
三島文学の凄みは、**“翻訳不能な日本語の構造美”**にある。
美しすぎて不気味。厳格すぎて愛おしい。
『ドルジェル伯の舞踏会』など、彼が愛読した西洋文学を読んでも、その比較対象として彼の凄みが浮き彫りになる。
だから私は思う。「三島由紀夫を原文で読める」こと、それ自体が日本人に生まれた特権なのだと。
まとめ|鍵がかかるのは部屋か、それとも心か
『鍵のかかる部屋』というタイトルは、単に物理的な密室を指すのではない。
それは社会からの隔離空間、性の芽生えと終焉、そして**人間の心の中の“触れてはならない場所”**を象徴している。
少女愛のように、語るのもはばかられる“禁忌”の表現を通して、三島由紀夫は「世界の外側」を描こうとした。
そしてそれが、日本語という精密な器を通してのみ表現されたという事実は、いま改めて噛み締めるに値する。
この本は、三島という作家の“危うさ”と“真剣さ”が詰まった短編集だ。部屋の鍵を閉めて、ぜひ静かに読んでほしい。
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