デカルト『哲学原理』第一部「人間認識の諸原理」考察
1. 思惟と不死性──デカルトの出発点
ルネ・デカルトの『哲学原理』第一部は、「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」という命題を起点とし、人間の本質を「思惟するもの=精神」として捉える。思惟は物体ではなく、ゆえにそれは身体の消滅と無関係に存在し続ける非物体的な実体である──と彼は述べる。
この「思惟する実体」が自ら存在するのではなく、より完全で不滅な存在によって保持されているとするならば、その原因となる存在──すなわち神の存在もまた、必然的に導き出されるというのである。
2. 想定される反論──脳=心という視点
だがこうした議論に対して、現代の視点から異議を唱える者も多いだろう。
たとえば次のような意見だ。「あなたが“非物質”とか“精神”と呼んでいるものは、実のところ脳内の電気信号と化学反応による現象にすぎない。つまり、思惟とは脳が生み出す“結果”であり、脳という物質が消滅すれば当然それも消える。」
「だから“精神”という実体は存在せず、あるのは高度に構造化された“超物質”の働きだけだ。むしろ神と呼ばれるものとは、物質界を超えて支配する“超物質的構造”の主なのではないか」と。
3. 現代科学と「心」の問題
脳科学が進展した現代において、心や意識を「脳のはたらき」と捉える実証的立場は主流である。記憶・感情・理性──これらもニューロンの電気信号と考えることはできる。手足も脳も、切断・破壊・消滅可能な「物体」であり、「心」もまた物体に宿る一時的現象に過ぎないのではないか。
4. 脳と意識のはたらき
確かに脳は、あらゆる感覚の統合、身体の制御、情報の記憶と処理の中心である。我々の「思考」も「好悪」も「記憶」も、すべて神経系の活動に由来するとすれば、それらを「非物体的」と考えることに、どれだけの根拠があるのか。
「いま私が考えていること」さえ、実は物理的反応の複雑な連鎖にすぎないのかもしれない。
5. 感覚と知識──死とともに消えるもの
寒さ、痛み、快楽といった感覚は、身体に依存する。身体が死ねば、これらも共に消えるだろう。記憶や知識──スマートフォンの使い方や道順、友人の名前──といった情報も、脳の機能が失われれば跡形もなくなるに違いない。
6. しかし「三角形」は滅びない
それでも、「三角形の内角の和は180度である」という命題はどうだろうか。私はこの事実を小学生のときに学んだ。しかし、私が知る前からこの真理は成立しており、そして今後も変わらずに真であり続ける。
このような普遍的・絶対的な真理を認識する「理性」のはたらきは、個人の記憶や感覚とは異なるものである。それは単なる脳の物理的活動では説明しきれない。ここにこそデカルトが「精神」と呼んだものがある。
7. 非物体的なるものの存在の論理
物体は感覚される。だが理性や真理、永遠といった概念は、五感によって捉えられるものではない。感覚されないからといって存在しないとするならば、「全てを感覚できる者」だけが存在を語れることになるが、そんな者はいない。
感覚できないものを否定することは、結局のところ、思惟する主体そのもの──つまり“私”の存在そのものをも否定する矛盾に陥る。
8. 神と「在る者」の論理
感覚も記憶も滅びる。しかし絶対的な真理を認識する精神は、それらとは異なる次元にある。思惟する自己は、より完全な「存在の根源」によって存在しており、デカルトはそれを「神」と呼んだ。
この論理の頂点にあるのが、旧約聖書『出エジプト記』の一節である。
“What is your Name?” asked Moses. God answered: “I AM who I AM.”
「あなたは何という神なのですか?」モーセが尋ねた。主は答えた――「私は在る者である」。
結語
デカルトの哲学は、現代においてもなお我々の思考を深く揺さぶる。「精神とは何か」「神は存在するか」「考えるとはどういうことか」。これらの問いを私たちに突きつけ続ける以上、その思想は決して古びることがない。
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