デカルト名言集【方法序説】──あまり知られていない第3部を掘り下げてみる
無駄なページのない本
ちくま学芸文庫『方法序説』の第1〜第3部は、一見すると淡々とした自伝的エッセイのようにも読める。かつて筆者も「ブログ的であまり面白くない」と書いたことがある。だが改めて読んでみると、そこには17世紀の知識人らしい緻密な思索と、行間に宿る覚悟のようなものが感じられる。
当時、印刷や出版が現代のように手軽でなかったことを思えば、書かれたすべての文に意味があるのは当然ともいえる。一文一句が、現代人にとっての“投稿”以上の重みを持っているのだ。
第3部の命題:「私たちが支配できるのは思考だけ」
中でも第3部に登場する一文──
「完全に我々の力の範囲内にあるのは我々の思想しかない」
──これはデカルト哲学の核心を象徴している。現実は思い通りにならなくても、思考だけは自分のコントロール下にある。だからこそ、「必然を徳と見なすことで幸福になれる」と彼は説く。
この考え方は、後のストア哲学や仏教思想にも通じる。「変えられるものに集中し、変えられないものは受け入れる」という態度である。
アリストテレスと「運動の起源」
この思想に近い古代の例として、アリストテレスの『自然学』がある。彼は「運動はより強い力により引き起こされ、最終的にその連鎖の起点には“動かざるもの”が存在する」と論じた。
その“動かざる始点”は、点であり、唯一である。すなわち、宇宙全体の運動はその点から波紋のように伝わる。我々が「自分で動いている」と思っているのは錯覚で、実際には外部の因果により“動かされている”のかもしれない。これは夢の中で自分が動いていると信じている私たちに似ている。
「我」という実体と身体の切り離し
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、思考することの確実性を出発点とする。その帰結として、「我」とは“思考する実体”であり、“身体”とは切り離された別の存在だと結論づける。
たとえば、足を失っても「自分」は消えない。それは「足」は自分そのものではないからだ。身体は外界の法則(重力、病気、事故)に従って変化し、思い通りにはならない。一方、思想は訓練し制御することができる。だからこそ、デカルトは「身体ではなく、思考こそが自己である」と主張する。
まとめ:「自己」をどこに見出すか
現代でも、「言いたくないのに口が勝手に喋ってしまった」「体がついてこない」といった経験は多い。身体とは思う以上に“他者的”なのだ。
だからこそ、「私たちが本当に支配できるのは、自分の思想だけだ」というデカルトの主張は重い。その姿勢は、人生をコントロールできない不安に対する哲学的な処方箋でもある。
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