【マルキ・ド・サド『新ジュスティーヌ』】“美徳”という幻想と、破滅への構造
はじめに──“新”ジュスティーヌとは何か
『新ジュスティーヌ』は、マルキ・ド・サドが生涯で三度にわたり描いた主人公ジュスティーヌの物語の、最終的な結実である。河出文庫版に収められた澁澤龍彦訳はその一部の完訳に過ぎないものの、サド文学の核となる「美徳と破滅」「快楽と犯罪」の主題が最も洗練された形で現れており、入門書としても優れている。
澁澤による抄訳は、単に原典を短縮したものではない。そこには、過剰な冗語や過激な猥語を一部排しながら、なおも“サド的思想”を損なうことなく提示するという、翻訳者としての高次な編集的判断が息づいている。
サド三部作のなかの“ジュスティーヌ”
ジュスティーヌは姉ジュリエットとともに、善悪の二項対立を体現する存在として描かれる。ジュリエットは積極的な悪を生きることで出世し、財を成し、社会の“成功者”となる。一方ジュスティーヌは、あくまでも“善”にすがりながらも、何度も凌辱・拷問・裏切りに遭い、最終的には理不尽な死を遂げる。
この構造は、サドが初期に描いた『美徳の不幸』、中期の『新ジュスティーヌ』、そして後期の『悪徳の栄え』へと連なる“倫理の三部作”ともいえる展開の中で、次第にシニカルな視座を深めていく。本作はその中間に位置し、道徳的比喩とグロテスクな表象が最も過激に衝突する地点にある。
快楽と禁忌の交錯
本作における性的逸脱や倒錯行為の数々は、現代の倫理観に照らしても耐えがたい衝撃を与える。だが重要なのは、それが単なる過激さの誇示ではないということだ。サドにとってこれらの描写は、社会制度、宗教、道徳、家族といった制度的秩序の“偽善性”を露呈するためのラディカルな装置であった。
この意味で、『新ジュスティーヌ』は「倒錯のカタログ」ではなく、「近代的自我が崩壊してゆくさまを描いた思想小説」として読むべきである。暴力とセクシュアリティが交差する場面では、人間の尊厳や理性の脆さそのものがむき出しにされる。
澁澤訳における“距離の技法”
澁澤龍彦の翻訳は、単なる通訳ではない。むしろ“日本語の倫理観”の地盤をわずかに踏み外すことで、読者に「これは何を意味しているのか」という思考の余地を与えている。彼は訳者あとがきで語るように、「猥雑な描写の中にある一条の知性」を強調しており、いわば“文体による理性の再構成”が行われている。
たとえば、下品になりうる台詞においても、語彙の選択や文の調律によって、それがただの退廃ではなく、“寓話的皮肉”として読めるよう慎重に設計されている。
結語──破滅する美徳という寓話
『新ジュスティーヌ』の語るところは明確だ。善良であれ、謙虚であれ、信仰深かろうと、それが社会的成功や幸福には結びつかない。むしろそうした“模範的”美徳は、あらゆる暴力と悪意を誘引する磁石でしかない。
サドのこの視線は、単なるニヒリズムではない。むしろ“美徳”という近代的な幻想に対する、冷酷な啓蒙である。本書を読み進めるにつれ、読者はサドという“倫理破壊者”の試練に晒されながらも、倫理という概念自体を再構築せざるを得ない地点へと導かれる。
だからこそ『新ジュスティーヌ』は、単なる猥本ではない。“悪の寓話”として、今なお読むに値する思想的実験装置である。
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