河出文庫版「新ジュスティーヌ」は手軽にサドの世界に足を踏み込む格好の入門書である。サド侯爵の小説は長ったらしいものが多いし、お決まりの道徳論説や無神論哲学が何度も繰り返されるため、一般の読者は何も無理して全訳を読まなくても十分であろう。
サドの作品の紹介・翻訳の第一人者、澁澤龍彦氏のそれは、全体からの抄訳がほとんどだが、この文庫版も「新ジュスティーヌ」の”一部分の完訳”なのである:というのは「ジュスティーヌ」はサドによって3回書かれていて、本作品は最後のものなのであり、澁澤が訳したのはその前のヴァージョンには含まれていない新しい箇所なのだから。
美徳の不幸
ジュリエットと姉妹のジュスティーヌは正反対の性質を持ち、姉はひたすら悪徳の道を進むが、ジュスティーヌは悪の道を嫌悪しひたすら悪人どもの餌食となる道を選ぶのである。ジュリエットの物語は「悪徳の栄え」と、ジュスティーヌのそれは対峙するものとして「美徳の不幸」と名付けられる。
言うまでもなくサドの哲学は極端であり、ユーモアに溢れていはしても正常な理性の唱えるところのものではないのだ。たとえば変態性欲というものがあるが、じゃあ一体何が正常なの?という話になってくる;
正常な性行為とは、言うなれば”善良なるキリスト教徒”が”神聖なる婚姻”によって結び付けられた夫婦によって、慎ましい褥で子孫を残すためだけに行われるそれでしかない。だから現代の恋人同士が行なっているだろうオーラル・セックスなんかはサドの時代からすれば立派な変態性欲なのである。
さて正常と異常の境界が取り払われ、タブー(禁忌)なるものが一切排除されたとき、黒い欲望つまりエロティシズムは前後の見境なく暴走する。性を問わず、年齢を問わず、美醜を問わず、穴という穴、肉という肉を貪り尽くす。
悪徳の栄え
動物と交わろうが赤ん坊を犯そうが、老婆の糞を食おうが、殺そうが切り刻もうが何でもありになる。では「新ジュスティーヌ」から特に面白いと思われる部分を抜粋しよう:
「女として、古代最高の美食家のひとりだったクレオパトラは、いつも食卓につく前に、何度も浣腸をする習慣だったそうですね」デステルヴァルが言い出した。「私は浣腸のかわりに、お釜を掘ってもらうことにしている」ブレサックが言った。「おお、わしは正直に言うが」ジェルナンドが言った、「暴飲暴食こそわしの神様なのじゃ。わしの神殿には、ウェヌスの偶像とならんで、この暴飲暴食の偶像が鎮座しておるのじゃ。
この二つの神に礼拝することによって、はじめてわしの幸福は見出されるのじゃよ」。。。
「みなさん」ジェルナンドが言った、「伯爵夫人に、みなさんの尻に敬意を表させては、いかがなものじゃろう」こうしてたちまち気の毒なジェルナンド夫人を取り巻いたので、彼女はたくさんの肉の塊に押しつぶされ、踏みつぶされるかのような具合になってしまった。
「まず、私が最初に規範を示しましょう」そう言って、ブレサックは自分に接吻させたが、そのとき、少しばかり糞をした。このやり方は非常に面白そうに見えたので、ただちにジュスティーヌを除く全員が、彼の真似をした。
まとめ
読んだら必ずレビューを書く、が筆者の信条である以上、どんな本でもこれを紹介しなければならない使命がある:ただでさえ時間がなくて記事の更新ができないのだし、どんなネタでも無にすることはできない。
そういう次第であるから、やや下品なところをお見せするようなことがあっても、賢明なる読者諸氏は寛大なる心をもって、これを甘受していただくことを切に祈るのである。