ボードレール『悪の華』「時計」考察|死と悔恨を刻む秒針の詩学

詩煩悩

ボードレール『悪の華』「時計」──怖るべき秒針の脅迫

※本稿は『悪の華』収録詩「時計(L’Horloge)」について、原文を踏まえつつ私的視点で論じたレビューです。個人的体験を交えており、やや感傷的な部分もございます。

私と「時計」

私の部屋には、もう20年近く前に町田の東急ハンズで買ったアナログ時計がある。少し洒落たデザインの、針が音もなく震えるような静かな時計だ。

この時計は、私のあらゆる人生の場面を見てきた。デリヘルを呼び、ネットゲームに没頭し、資格の本を開いたかと思えば、またビールを飲んでDVDを観る──そんな間抜けな時間を、無言で見守っていた。

神奈川、東京、そして東北と居を移す中で私自身は変わっていったが、この時計はただ黙って秒針を刻み続けていた。

「時計」とポーの影

『悪の華』の中でも、「時計(L’Horloge)」は“憂鬱と理想(Spleen et Idéal)”の章の掉尾を飾る象徴的な詩である。

この作品には、ボードレールが生涯敬愛したアメリカの詩人・小説家エドガー・アラン・ポーの強い影響が見てとれる。実際、ボードレールはポーの翻訳者でもあり、その才能をいち早くフランスに紹介した人物だ。

彼がポーについて書いた評論は、創元推理文庫版『ポー小説全集 第2巻』の巻末にも収録されている。

「模倣している」とまで評されるほど、ボードレールの詩にはポーの幻想的で病的な感性が反映されている。

時計=神なき時の審判者

ポーにおいて、時計はしばしば「死」や「狂気」の象徴として登場する。そしてボードレールもまた、時間という概念を詩的な恐怖の対象として扱っている。

「時計」の中で、彼はこの機械装置を「無感覚の神」と呼ぶ。それは慈悲も感情も持たない絶対者であり、私たちに絶えず終わりへと近づくことを告げ続ける存在だ。

アナログ時計の秒針が刻むカチカチという音。それはあるときはまったく耳に入らず、あるときは異様なまでに大きく響く。不快な周波数をまとって、私たちの罪を指し示すように。

私はとうとうこの時計の電池を抜き、「3時」のまま止めてしまった。ただそれが、どこか無害で平和に見えた時刻だったからだ。

秒針の脅迫

しかし、秒針の音はただの機械音ではない。ボードレールの詩を読むと、それが次第に声のように聞こえてくる。

──「お前は今まで、何をしていたのか?」

そう責められているように感じるのは私だけだろうか。1秒1秒が積み重なり、それが年月となり、人生となり、やがて寿命となって終わっていく──その過程に、私たちはまったく抗えない。

この詩は、その時間の冷徹さを、まるで昆虫の声で告げられているかのように表現している。過ぎ去った青春、失われた快楽、薄れていく希望。

そして、静かに空になった砂時計が置かれた、乾ききった深淵だけが残る。

悔恨と死の美学

ボードレールの詩にはしばしば、自身の罪悪感や悔恨が描かれる。彼は若き日の享楽、堕落、放蕩の果てに梅毒を患い、遺産も失った。

その人生を、彼は『悪の華』という芸術に昇華し、己の愚かさを永遠化したのだ。

悔恨という感情は、現代ではうつ病や自死の引き金になることもある。しかしボードレールやポーのような知性は、それを見つめ、弄び、詩にする。

彼らは、死の恐怖に対して沈黙するのではなく、言葉という武器で対峙し、そこに美を見出そうとした。

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