【碧巌録】感想・紹介〜紆余曲折の中国文芸作品を読んで

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岩波文庫の3冊組み『碧眼録』を約半年かかって読み終えたのでその感想を書きたい。

概要

書物の詳しい概略はwikipediaに譲る。よってここには一般論ならぬ筆者の極めて個人的感想を記すことになる。まずこの書物の名前を知ることになったのは故夏目漱石先生の小品集の注釈からで、以後漱石の短編などを読む際には頻繁に出てくる禅語について注意するようになった。

つまり舶来かぶれだった筆者の関心を漢文に向けてくれたのは夏目漱石先生のおかげであり、ひいては仏教に結びつくのであるが、この妙法に出値うのは100千万永劫にも難しとあるように、きっかけを与えてくれた先生に感謝せねばならぬ。

『碧巌録』は禅語録である。道元禅師の『正法眼蔵』も常済大師の『伝光録』も中国の禅語録のコピーであることはすでに書いた。つまり日本のこの二冊を読む暇があったなら本家の中国の禅語録を読むの方が早く、数多い書の中でも『碧巌録』一つでほぼ網羅されているので、教科書的意味でも日本の禅を知るためにはこの本一つで十分であると判断する。

はじめに”禅”というと何かスポーツの種目のひとつのごとく思われがちなのは、鈴木大拙という時代遅れの学者が外国に「日本的霊性」の現れだとして英語で紹介したためであろう。その外人に対する観光文化の紹介、海外旅行誘致的勧誘の姿勢が、誤った”禅”の観念を作り上げ現在に至っている。

”禅”とはことさらなものではないことは、『普勧坐禅儀』にも書いてある(ちなみにこの本も中国コピーである)。日本の禅宗にオリジナルなものは一切ないことはこれもすでに書いている。ましてや浄土系はなおさらである。

日本の浄土系の宗派はどうやったら極楽へ行けるかを延々と議論する非常に下らない、時間と紙と墨の無駄のようなものであり、禅宗以下と言える。この二つをもってして「日本的霊性」と主張する大拙の本は以後全く読んでもいない。

では何が「日本的霊性」か。弘法大使である。真言密教にその答えがある。しかしそれについては次回に譲るとして、ここでは密教には軽く触れるに留めたい。

止観

”禅”は、道元がひたすら座れ(只管打座)と説いたために、座ってることがそうであるかのように思われがちであるが、”禅”は仏教徒における身口意の修行形態の一つに過ぎぬ。”禅”を一言で言えば、というか二語であるが、「止観」である。

「止観」とは何か、知るために『大乗起信論』にそれが「真如」と共に明から様に書いてあることを指摘しておくとともに、さらに「止観」について掘り下げた難解極まりない天台大師の『摩訶止観』を読まねばならない。どちらも一般人でも手に入りやすい本なのである以上、禅とそして日本の仏教を知る上でこれは最低条件である。

感想

最後に『碧巌録』とは何か。文芸作品である。これは深い歴史ある中国の学芸とインドの仏教経典が融合して生まれた奇書であり、それ以外の何物でもない。中国には仏教が伝来するまでもなく奥深い学問があり、先祖の聖人が開発した文字がある。

この運動は欧米で言えば近代のシュルレアリスムに似ている。『碧巌録』を開いた時、これは三冊読み終わるのに三年かかるのでは、と思ったほどである。それくらい最初は筆者は漢字文化に疎く、苦手だった。

屈折した文面はロートレアモンの"PoesieⅠ、Ⅱ"の原文を思い出した。最後まで目を通して『碧巌録』とは「マルドロールの歌」の原文に等しい文学価値を持つということを確信した。しかしこれが中国でまとめられたのは10世紀以前のことであるから、いかに中国そして日本の学問が進んでいたかがわかる。

「日本的霊性」という借り物の言葉で説明したけれども、日本の国土に染み付いた仏教の正体は、神仏習合であり真言密教であると言いたい。しかしまだ研究の途中なので断言は避ける。

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