序論:デカルト的方法と明証的真理の探究
デカルトの哲学的手法とは、「悟性が明晰かつ判明に認識するもの以外は真と見なさない」という態度に基づく。それは『方法序説』『哲学原理』において明示され、『精神指導の規則』では、最も単純なものから徐々に複雑なものへと認識を進めてゆく方法が説かれている。
筆者もまたその方法に従い、まずこの物質的世界が存在していること、そして昼と夜という交互に訪れる現象が明確にあることを認めた。昼とは光の反射がもたらす造形であり、夜とはその不在にほかならない。そしてこれらを区別する光源こそ太陽である。
天体の秩序と悟性の確認
太陽は東から昇り西に沈む。夜になると月が現れ、その形は変化し、さらに木星や金星といった惑星の輝きが空に浮かぶ。これらの星々の明るさや出現時刻の違いから、それぞれの距離と位置を悟性は理解する。
木星は最大で最も輝き、ユピテルの名が示すように王の如き存在感を放つ。金星は太陽の後を追うように夕空に姿を現し、まさにヴィーナスのように美の象徴と見なされてきた。
このような天体の観測と、悟性の明証的な同意とによって、世界の秩序が一層明らかになっていく。水星(ヘルメス=メルクリウス)や火星、土星などの存在も、目視や記録を通じて確証されていった。
地球の運動と人間の認識
筆者はさらに、地球が自転しつつ太陽の周囲を公転していること、そしてその自転軸が23.4度傾いているという事実を知るに至った。これは地球上の昼夜の交代、季節の変化をもたらす根源的原理である。
経度と緯度の概念もまた、こうした認識に不可欠である。経度はグリニッジを基準とし、緯度は赤道をゼロとする地球の空間的秩序の象徴である。こうした座標の背後には、人間の理性と世界認識の欲望が潜んでいる。
フーコーの振り子と相対的時空
自転という運動は人間の感覚には捉え難いが、フーコーの振り子がその存在を示した。空間は相対的であり、時刻もまた経度ごとに変化する。
私たちの視野における「地平線」は極めて限定的であり、それは宇宙的視点から見れば、塵に等しい点でしかない。この地球に住む我々の認識がいかに狭く偏在しているかが露わとなる。
幾何学と神の秩序
円や線、点、球――幾何学的実体はデカルトにとっても最も確実な認識の対象である。地球が球体であること、しかし完全な球ではなく山や谷により不均衡であること。大気がその表面を覆い、私たちの認識はそれによってしばしば錯覚される。
それでも、この世界の美しさと秩序の緻密さは、まるで何者かの意志により設計されたかのようである。偶然の産物とは考え難く、むしろ構築された幾何学的宇宙の一端に立っているような錯覚すら抱く。
創世記との照応
筆者がデカルト的手法によって一つずつ認識していった順序は、旧約聖書『創世記』に記された天地創造の秩序と不思議な一致を見せている。光と闇、天と地、太陽と月、そして星々。この世界を認識するとは、まさに創造の逆再生であり、神の知性を追体験する道であるかのようだ。
しかしこの神秘の根源に関して、哲学は沈黙を守る。そこから先はミューズの領域、すなわち詩の役割である。
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