評論

舩坂 弘【関ノ孫六・三島由紀夫、その死の秘密】解説・紹介 2018年最新版

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今回は特別に図書館から取り寄せてもらった書籍であるため、念入りにレビューさせていただく。都会の方では常に予約中みたいである。絶版で古書で買うにも高い。立て続けに三島由紀夫の本を借りそして今回はこれであるため、田舎の私の図書館でもそろそろあやしい目で見始められている。 😎 

著者

舩坂 弘(1920−2006)は「生きている英霊」「不死身の分隊長」の異名を持つ元軍人。戦場のリアル・ランボーの様な存在で、戦後は渋谷の大盛堂書店を経営。「戦史叢書」に個人名が唯一載っている人物。南太平洋慰霊会理事、テキサス州名誉市民章など数々の肩書きを持つことで知られる。

アクション映画でも戦争映画でもない本物の戦場で殺るか殺られるかの地獄をくぐり抜けてきた、戦争の生ける証人のような男。そのお方が三島由紀夫が自決に用いた日本刀「関ノ孫六」(せきのまごろく)について書いたのが本書だ。

出会い

全体の流れは1970年11月25日三島自決のニュースで衝撃を受けるところから始まる。警察の取り調べを受けながら過去の三島由紀夫との思い出を回想する、という形のなかなか凝った構成だ。というのは三島が当日使った日本刀は舩坂氏が贈った物だったからだ。

三島氏と舩坂氏の付き合いは終戦翌年まで遡る。平岡公威(三島の本名)青年を父の平岡梓氏が連れて書店に挨拶に来た。以後文学に熱心な青年はよく本屋に来るようになる。三島が文士として立ったのちも剣道仲間として渋谷警察署の道場で再会し手合わせなど行う。

英霊

二人は同時期に共通するテーマの本を書いていた。すなわち舩坂氏は最初の本「英霊の絶叫」を、三島氏は「英霊の声」を。舩坂氏が勇気を出して原稿を三島氏に見せると、感銘を受けた氏は添削をしてあげただけでなく用紙20枚に及ぶ立派な序文まで付けてくれたのだ。本は高評価を得て、氏は印税で南太平洋各所に慰霊碑を立てることができた。この上ない感謝の気持ちから舩坂氏は愛蔵の「関ノ孫六」の刀を三島氏に贈呈したのだった。

「英霊の絶叫」は良書として今も販売されているのに対し、この「関ノ孫六」はもう売っていない。昭和48年にカッパ・ブックスより刊行された本書は、資料的価値は高いもののいささか三島贔屓の公平性を欠いた内容であるためだろうか。氏と遺族に対する申し訳ない気持ちと当時のマスコミの無責任な報道への弁明であったのだろう。

私としてはこの本は葬儀に献花のみしかできなかった著者の、三島氏への長い弔辞であると受け止めた。

◯舩坂弘「英霊の絶叫」についてはこちら→舩坂弘【英霊の絶叫】玉砕島アンガウルと三島由紀夫の序文・2018年最新レビュー

◯三島由紀夫「英霊の声」についてはこちら→三島由紀夫【英霊の声】あらすじ・要約・レビュー〜2018年最新版

墓参り

語りはまず刀匠、金子孫六の墓参りから始まる。三島由紀夫とその自決に使われた刀匠の魂を鎮めるために。関ヶ原の戦いで知られる美濃(岐阜県)の関市は梅龍寺にある金子家代々の墓へ訪れ、酒と花を捧げて住職の供養を受ける。父梓氏からの依頼により、三島氏の日本刀についての本を書き始めて間もなくであった。

そして三島氏が昭和45年11月12日から17日まで東部デパートで開催した「三島展」の話題に触れる。贈った「関ノ孫六」が展示会の一番奥に目玉として置かれていたこと、なぜか孫六が軍刀仕様に造り変えられていて不審に思ったことなどが。

剣道

三島氏が剣道を始めたのは東調布警察署の少年道場だった。そこで教えてくれた先生が渋谷警察署に転勤になり、三島氏も追いかけて行った。渋谷警察署道場には舩坂氏が6年も通っていた。

舩坂氏は戦争で受けた傷に悩まされ続けていて、戦後も身体中24ヶ所に弾丸の破片が埋まったままだった。順次摘出するも左腹部に親指大の迫撃砲弾の破片と、左腕関節に手榴弾の破片が残っていた。それが絶えず神経痛となって苦しめていた。

とある日にひ弱な息子のために剣道を習わせようと渋谷警察署へ連れて行った。息子はやりたくないと駄々をこねた。じゃあお父さんもやるからそれならやるかい?と聞くとそれならやる、と息子。

初日の稽古は地獄だった。息子の手前意地でも弱音が吐けず、激痛に絶えんばかりになりながら終えると何と神経痛が消えていたのだった。そこで舩坂氏は「病は気から」であると悟って剣道に励むようになったのだそうだ。

武士の魂

手合わせしたり稽古の後風呂に入りながら話したりするうち、二人は親交を深めるようになった。舩坂氏が三島氏に「関ノ孫六」を贈った経緯は前述の通りだが、以下のようなやりとりがあった。

いくら刀をあげると言っても礼儀正しく辞退する三島氏を、書店に訪れたある日舩坂氏は日本刀を見るだけでもいいから見てくれ、と座敷にあげた。

「ではあなたは日本刀をお持ちですか?」と舩坂氏が尋ねた。日本刀とはいわば「武士の魂」が形をとった物だ。それは和田克徳著「切腹哲学」にも明記されている。

「いや、骨董屋で買った鈍刀しかありません」と三島氏が答える。「とてもお見せできるようなものではございません」

自決直前に孫六に見入る三島由紀夫氏

◯和田克徳「切腹哲学」についてはこちらへ→和田克徳著【切腹】【切腹哲学】レビュー〜紹介・感想・考察

神風連

この代物は「豊穣の海」の取材で熊本に行った時に店で見つけて買ったのだと言う。取材とは第2巻「奔馬」に神風連(しんぷうれん)のことを書くためであった。

この事件は1876年(明治9年)熊本市で起きた武士の反乱である。時の新政府は”断髪令”と”廃刀令”を出した。それを不服とした計178人の武士が警察や陸軍精鋭2300人を相手に、熊本鎮台に日本刀で斬り込んだ。熊本県知事や役人、警察官、兵士を血祭りに上げ、124人の武士が戦死、自決、刑死したのだった。

神風連の襲撃の様子は「奔馬」に細かく書かれている。彼らは日本人の心(大和魂)を守るため、鉄砲隊相手にあえて「日本刀」で戦いバタバタと倒れるのである。例えが軽薄になるが、スターウォーズでいえばジェダイ・ナイト的軍団。

 白虎隊

舩坂氏のどうしてもという説得でついに三島氏も折れ、差し出された二本の孫六のうちどちらかを選んでくれと言われる。日本刀はただの物ではなく魂が込められているのであって、三島氏と同じ魂を共有したかったのだ。

三島氏は長い方二尺三寸五厘(約70センチ)の、受け傷のある刀を選んだ。戦場で受けた傷である。二人は傷の出所について想像力を巡らす。証明書には福島県と書かれている。となればこれはかの松平藩、徳川幕府への忠節を誓い白河城の戦いに散った会津の武士の刀ではないのか。その中には飯盛山で自決した少年兵たち、白虎隊もいた。

日本刀の刃

舩坂氏は事件ののちに本の取材で刀匠・現27代孫六の元を訪れている。そこでなぜ日本刀は良く斬れるのか、という質問をした。ドイツの剃刀会社ゾリンゲンはかつて関市に研究にやってきて、その秘密を探ろうとしたが結局分からずじまいだった。

刀匠の答えとは、日本刀の強さは折り返し鍛錬にあるというものだった。すなわち1枚を折り返すと2枚になる。それをまた折り返すと4枚になる。次は8枚、16枚、32枚、64枚これを15回繰り返すと32、768枚になる。日本刀の刃には、約3万3千枚の刃が結合して出来上がっているのだった。

公判記録

wikipediaの記事は公判記録やその他の書籍を元にしているのである程度信用はできる。三島氏の介錯は3回失敗したのか2回失敗したのかははっきりしない。解剖所見では不明である。

孫六の特徴とも言える三文杉と呼ばれる刃文は、刃の模様のようなものだがこれも鑑定では偽ということになったようだ。マスコミは介錯の衝撃で刀がS字に曲がったなどと報じている。だが実際証拠品検分に立ち会った舩坂氏によれば孫六は曲がっていないし、鑑定結果は初代または二代孫六とは違うという意味だと語っている。三島氏に贈ったのは後代孫六であってその証明書もあるのだから。

時事通信社の参考写真

曲がっているように見えるのは一緒に置かれた「楯の会」のベルトをそう勘違いしたからだろう。ベルトには鞘がぶら下がっている。一番上の刀は曲がっていない。ちなみに「楯の会」のベルトには十手(じって)のような武器が仕込まれており、人間の頭蓋骨などは簡単に粉砕できるものだったという。

三島氏の切腹の傷であるが、臍を中心に真一文字に13センチ切り裂かれていた。深さは7センチ。脂肪と鍛え抜かれた腹筋を貫通する傷である。小腸は60センチ飛び出していた。

介錯

介錯については生前に居合道の嗜みのある舩坂氏の息子が教えていた。三島氏は居合の段も取っている。三島事件当日は「楯の会」学生4人が同行し、介錯を行った。だが実体験もなく教えられただけでかなり苦労したようだ。三島由紀夫と学生長の森田の首は「関ノ孫六」が斬り落としたのである。

孫六の中心(なかご)と呼ばれる普段刀の柄に納まっている部分がある。刀匠はここに自身の銘を刻むそうである。三島氏は斬り込みの際に介錯の失敗などによって、刀が柄から絶対に外れることのないよう目釘と呼ばれる固定金物を潰している。また警察の取り調べで舩坂氏が煩わされるのを予想し、刀の証明書類一切を現場に持参していた。武士というものは己の行動に責任を取るものなのだ。

輪廻転生

また11月25日という決起は1月14日誕生日の49日前に当たることから、氏が中有(バルドゥ)期間を計算に入れて輪廻しようとしたのではないかとも語っている。仏教で中有とは死者が生まれ変わるまでの中間状態を指し、49日間続くと言われている。通夜で和尚がそういう講話をするのを聞いたことがないだろうか。

◯中有(バルドゥ)についてはこちらもどうぞ→チベット仏教の秘儀【チベットの死者の書】考察〜ヒッピー、ユングら世界中で支持される理由

まとめ

最後に戦場の英雄・舩坂氏の現代の我々からすれば多少暑苦しい意見の言葉を抜粋しよう。

「戦後、自由を獲得したと思った日本人が、お手製の自由の中に生きていながら、その実、自由に対する渇望に満ち満ちていて、日本人が日本人同士の足を引っ張りあって、自分さえ良ければ他はどうでも良いという、地獄絵図の中に群居しているのである」

◯三島由紀夫作品レビューはこちら→【三島由紀夫】作品レビューまとめ〜当サイトによるオリジナル版〜

関ノ孫六―三島由紀夫、その死の秘密 (1973年) (カッパ・ブックス)

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