フランスの作家アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ氏がその小評論「ジュリエット」のなかでも絶賛している、サドの「閨房哲学」をレビューする。
「ジュリエット」
「ジュリエット」はマルキ・ド・サドの長編小説「悪徳の栄え」の女主人公の名前である。氏はこの評論のなかでサドの作品について誠に的確な評価をしながら、「閨房哲学」は一番のお気に入りの作品だと公言する。
その理由としてサドの意見が堂々と述べられていることや、作品を構成する対話体のスタイルが実に好ましいことなどを挙げている。スタイルを重んずる氏ならではのチョイスだと言える。
確かにその通りで、作品は”道楽者へ”から始まり第一から第六の対話、そして”最後の対話”で終わり、特に第五の対話には”フランス人よ、共和主義者たらんとせば、いま一息だ”なる長いパンフレットが挿入されている。
プラトンの書物がそうであるように対話体というスタイルが哲学に適していることは頷けるし、デカルトの方法序説がそうであるように6つの部分に分かたれていることも数学者ぽくて格好良い。
グノーシス主義
にも関わらずこの記事のカテゴリーを”哲学”ではなく”評論”としたのは、筆者がどちらかと言えば「閨房哲学」は哲学書ではなくサドの主観的な意見を述べた本であると感じたためである。
哲学というものは事物を平等に観照し理性的に思惟する学問のはずだが、サドの女のような知性はむしろ好き嫌いに走っているように見え、とても哲学と呼べる代物ではない。
しかしマンディアルグ氏が評論で度々引用するグノーシス主義との関連上、サドの作品特に「閨房哲学」は興味深い内容であり、一考に値することは言うまでもない。
福音書
「福音書」など(特に正典)を読んでいると、あまりに綺麗事ばかりが並べられているため時々ゲロを吐きそうになる;これはサドによらずとも人間の自然な衝動なのである。
「閨房哲学」はキリストを”詐欺師”呼ばわりし、「ユダヤの淫売の腹から豚小屋の中で生まれた」馬鹿者であると述べている。またキリスト教の三位一体で父と子とともに最も神聖なものとされる聖霊をも”化け物”と呼ぶ。
宗教に対する徹底した反駁は対話編冒頭に述べられている;なぜこのような読み物を味わうと口元がニヤけてしまうのか?ヘルメス文書やアウグスティヌスの本の崇高な神の賛美ばかり聞いているのが、なぜ精神衛生上好ましくないのか?
ミルトン「失楽園」では宇宙の最外殻に地球と天国と地獄への道が交差する、三又の辻がある。ブレイクの「天国と地獄の結婚」では”善とは理性に従う受動性、悪は活力から迸る能動性”と歌われている。
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感想・まとめ
「閨房」はフランス語で婦人の寝室を意味するが、もっと色っぽいニュアンスが含まれているものと思われる。寝室というよりはラブホの室内的雰囲気に近いイメージではなかろうか。
そこで展開されるサド独特の考えが登場人物ドルマンセを通して語られる。パンフレット”フランス人よ、共和主義者たらんとせば、いま一息だ”も当時のフランス革命の雰囲気を垣間見さす、誠に過激な意見に満ちている。
澁澤龍彦の訳は卑猥な部分や長すぎる論点をカットした全体に対する半分の量しかないらしい。それでももうたくさんだと言いたくなるほど、お腹いっぱいになる。
ただ、こんなことはあとがきで言わないでほしい。このような書物にふさわしくないと思われたからだ:「残念ながらそのような部分は割愛せざるを得なかった」