心臓は電気で鼓動する。
何も書く気がしない。だが更新を絶やすわけにもいかない。だから今日は「読書感想」という枠を超え、あえて“オリジナル”の思索を書いてみる。最近では、読んだ本に頼らず文章を成り立たせることが難しくなってきた。
さて、夢の中でさらに夢を見るとどうなるか。夢の中で覚醒したとしても、それが夢であることには気づけない──二重の夢は、我々の日常に似ている。
日本語の発音体系は古代に端を発するが、その文字は中国や朝鮮半島からの輸入品である。近代以降は欧米の横文字も取り込み、言語体系は混成的で複雑化した。
にもかかわらず、歴史的恩義のある隣国には背を向け、むしろ欧米に追従しようとする傾向がある。その姿勢は傲慢さを生み、ついには「被爆国」という悲劇的な帰結に至った。
日本の仏教はパンクである。
日本の仏教──それは「誤解された思想」でもある。形式化された儀式の向こうに、実は“パンク”にも似た精神が宿っている。仏教は、楽しくて自由で、そして過激ですらある。
『宝鏡三昧』にある「木人まさに歌い、石女起ちて舞う」という一節。これは、死んだものすら生きる──仏教の根底にある生命肯定の爆発、そんな衝動の比喩ではないか。
『宝鏡三昧』を読むには、易経・老荘思想・『摩訶止観』といった古代中国の知を理解する必要がある。それらを学ばずして、一行も本質には届かない。
坐禅とは「安楽の法門」である。
「坐禅は習禅にあらず、これ安楽の法門なり」──『普観坐禅儀』より。坐禅は仏教修行の“入り口”ではなく“完成形”である。
横たわる姿勢は眠りや死を象徴する。一方で「座る」という行為は、赤ん坊が最初に身につける姿勢であり、最も基本的かつ尊い所作なのだ。
無上正等正覚──あのくたらさんみゃくさんぼだい。これを得るには、まず座ることから始めなければならない。それが“止観”である。
荘子的視点
心をも捨て去る。それでもなお、心は何かを映し出す。身を捨てようとも、太陽は昇り沈み、風は吹き、雲は流れてゆく。
テレビという装置は20世紀に登場した──それ以前には存在しなかった。ならば、それは“幻”であるとも言えよう。
筆者のテレビ嫌いはご存知の通りだが、改めて言っておく。テレビとは夢の中の夢であり、視聴者はその夢に耽る者だ。夢の中で夢を見ている者は、自分がまだ夢の中にいることに気づけない。
そして夢を見る者は寝言を語る。これを仏教では「妄語」という。寝言のままに語り、己がそれに気づかない──この無明が現代である。
妄語の時代
テレビに出演する者がいて、番組を作る者がいて、それを流す国家がある。そして視聴者がいる。だがもし国民のすべてが筆者のような人物だったなら、テレビというメディアは成り立たない。
夢の中で夢を語り合い、互いに妄語を交わし、やがて皆、夢のように消え去る──それが現代の情報空間である。
易経と外道
たった一つのお経を正しく読むにも、どれだけの“外道”を学ばねばならぬことか。仏教における“外道”とは、単なる異教ではない。それは必要な通過儀礼であり、照らすべき影でもある。
最後に問おう──「磨き抜かれた糞」と「糞で巻かれた宝石」。あなたならどちらを選ぶか?
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