三島由紀夫はなぜ自決したのか?思想・武士道・切腹文化から読み解く最期の真意

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三島由紀夫はなぜ自決したのか?──その理由を考察する

この記事の最初のバージョンは2017年7月31日に書いた。北朝鮮のミサイル発射や憲法改正のニュースが飛び交う中、何気なくYouTubeで三島由紀夫の自決演説の動画を観たのがきっかけだった。

それから半年以上が経った2018年1月、日本列島は全国的な寒波に包まれ、まるで国そのものが凍てついているようだった。その間に三島由紀夫の作品や関連書籍を読み漁り、なぜ彼があのような死を選んだのか、ある種の答えが自分なりに見えてきた。

その答えは記事の最後で述べたい。そして、読み進める中で過去の自分の見解に誤りがあったと気づいた点には注釈を加えていく。

海外でも評価される三島文学

三島由紀夫は海外でも高い評価を受けた数少ない日本の作家である。若い頃の私は日本文学に耽溺していたものの、なぜか三島の作品だけはまともに読んでいなかった。唯一しっかり読んだ記憶があるのは戯曲『サド侯爵夫人』だが、当時はその内容もほとんど理解していなかったように思う。

ところがフランスの作家アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグは晩年、日本文学に傾倒し、特に三島由紀夫に強い敬意を表している。『熱帯樹』などのフランス語訳も手がけたほどだ。

澁澤龍彦との対比──日本文化への劣等感と再評価

私は若い頃に澁澤龍彦に傾倒していたため、同時代を生きた三島にも多少の関心を抱いていた。三島は日本文化の「遅れ」や「劣等性」を直視し、それでも世界的に名を残すにはどうすべきかを真剣に模索していたように思えた。

当初は、「三島=西洋崇拝」と誤解していたが、読み進めるうちに印象は変わった。むしろ彼は日本の古典文化に精通し、そこにこそ普遍的な美の根源を見出そうとしていた。西洋的身体と日本的精神の融合――それこそが三島文学の核である。

註:三島は日本の古典文学や美意識を深く愛し、それを守ろうとしていた文化保守者であった。

武士道と自決の演出

三島の行動様式や死に方が「右翼的」とされるのは当然だ。なにせ彼は自衛隊の駐屯地で「武士道」を叫び、日本刀で腹を切り、介錯を命じたのだから。

日の丸の鉢巻、鍛え上げられた肉体、軍刀、バルコニーでの演説──そのすべてが象徴的で演劇的だ。実際、演説の動画では聴衆の怒号で三島の声はほとんど聞き取れず、「演説」というより「演出」と呼ぶべきかもしれない。

この切腹は、日本の武士道という文化的装置を、現代の舞台で再現した“最終公演”だったのだ。

「理想」と「死」が交差する地点

三島由紀夫の死をひとことで説明するなら、「切腹願望」と「武士道」へのミーハー的な憧れに尽きる。文学者としての理想を現実社会で実現できなかった彼が、唯一たどり着ける“美の極点”が、自決という演出だったのだ。

自ら創設した楯の会の青年たちも、言ってしまえばその美学の実現のための「小道具」だったのかもしれない。では、なぜ彼はそこまでして「死」にこだわったのか。

武士道と切腹文化──その根源を問う

突き詰めれば、三島由紀夫の最期は「武士とは何か」「切腹とは何か」という問いに収束する。

明治以降の近代国家が封印してきた武士道精神への憧憬、昭和期における帝国軍人の精神継承、あるいは戦争で死ねなかった自分自身への罪悪感──それらが複雑に絡まり、最終的には“昭和最後のサムライ”としての死を選んだ。

私は文学に関心がある。だから三島のように“戦士”になりたいとは思わない。ただ、文学が人間の生と死にどこまで迫れるのか、その問いには三島が全身全霊で答えたのだと感じている。

結語──三島は中学生だったのか?

2.26事件や神風特攻隊に憧れを抱く三島は、どこか中学生のような純粋さを持っていたとも言える。若い頃、戦争で華々しく死ねなかったことが、生涯拭えぬ「遅れ」として彼の中に巣くっていたのだろう。

だからこそ、彼はああするしかなかった。いい年をして国家と衝突し、死という形でしかその「物語」を完成できなかった作家──それが三島由紀夫だった。

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