悪魔論|空気のようなスピリットとしての実在と本性を考察する

哲学

【悪魔論】悪魔の存在・本質・起源に関する一考察

一、空気としての悪魔

悪魔なる存在については古来より論ぜられ、諸説錯綜して今日に至る。最も普遍的なる見解は、悪魔は空気の如きもの、すなわち可視ならざるスピリットとするものである。質量を有せず、形を取らぬこの霊的存在は、風と同義とされ、「スピリット=風」の等式により象徴される。本文は、書籍的典拠に依らず、筆者自身の感覚的観察に基づき、この存在の特質を述べんとするものである。

二、悪魔の本性と宇宙的地位

悪魔とは、いまだ物質以前の段階に於いて創出された霊性体であり、その棲まうところは天国の対極たる地獄に他ならぬ。現在われらが生きる可視宇宙は、天国と地獄との狭間に在り、どちらにも傾きうる中間界にして未決断の領域である。

されば悪魔らは、地獄よりこの中間世界に侵入し、あわよくば天界への道を企てんとしたが、それ叶わざることを悟り、次善として現世的物質世界の支配を選択したのである。

三、地獄との比較と快楽の欲求

地獄に比して現世は、悪魔にとり多少なりとも耐えうる場にして、よりましな存在領域である。彼らは人間という肉体に憑依し、その五感を通じて快楽を貪る。たとえ最終的には再び地獄に戻る運命であるとも、短き現世の悦楽を得んとする。

しかも人間の魂を道連れに堕とし、地獄への土産とすることが可能なれば、その行為は彼らにとって至高の冒険(アヴァンチュール)と映るのである。

四、天上の模倣と術式

悪魔は、天国に属する美・正義・名誉・善・栄光といった属性を、物質を以て人工的に模倣する。その行為は地獄的知識と技術によるものであり、人間の力のみでは自然を操作し元素を変化せしむる離れ業は到底為し得ぬ。

よって、悪霊の恩寵を得んと欲する者は、まず祈祷し、崇拝の儀を捧げ、犠牲を供し、その恩寵が下るを待たねばならぬのである。

五、性別の超越と傾向

悪魔には性別の概念は存在せず、男性にも女性にも属せぬ。故に、憑依に際しては男女いずれの肉体をも選びうる。肉体の性差は快楽の道具としての差異に過ぎず、目的は快楽そのもの、さらにそれを極限にまで高めることである。

地獄的知識とは、すなわち快楽の洗練にほかならぬ。その性質として以下の傾向が挙げられる。

一、自らを美麗・高貴と誤認すること。

二、他者を支配し得るという錯覚に陥ること。

三、飲食物への異常なる執着を見せること。

四、性への耽溺とそれによる理性の喪失。

五、虚言を弄し現実を撹乱すること。

とりわけ、悪魔は飲食と姦淫に著しい幸福を見出すゆえ、この二点に着目することは、その存在を看破するうえで極めて有効である。

六、結語

以上、簡略ながら悪魔の起源と特性につき一考を述べたり。悪魔は実在する。ホラー映画に登場する名称だけの悪霊に非ず。映画そのもの、映像、音響、観客の肉体、そしてその鑑賞を取り巻く空間──すべてが悪魔的装置の一環である。

この世界が、可視にして霊的なる存在によって構成されているという視座なくして、悪魔論を論じることはできぬのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました