【緊急事態宣言】コロナ対応に見る日本社会の構造と課題

評論詐欺

【緊急事態宣言】に寄せて――新型コロナウイルス対応から見える日本という国

日本人であるという自覚

新型コロナウイルスの拡大と、それに対する政府の対応を目の当たりにして、私はふと自分が「日本国民」であるということを強く意識させられた。

普段の私は他者とあまり関わらず、日本人であるということも、どこか抽象的なラベルとして捉えていた。しかしこのような国難において、私もまた、社会の一員として不可避の帰属を突きつけられる。私の未来は、日本という共同体の決断によって大きく左右されるのだ。

疫病と運命共同体

政府の対応が正しかろうが間違っていようが、その結果を私たちは等しく受け入れるしかない。同じ国土に生き、同じ空気を吸う以上、私たちは運命を共有する存在だ。それが「国民」であるという事実の、厳しくも現実的な側面である。

日本という国土と民族

日本は、環太平洋の火山帯に浮かぶ島々から成る、海に囲まれた国である。その地理的特性は、日本人の文化形成にも大きな影響を与えてきた。

人種的には、中国や朝鮮半島の人々と外見的にも生物学的にも共通点が多い。肌の色、目の形、体格などの面から見れば、兄弟民族と呼んでも差し支えないほど似通っている。にもかかわらず、我々は往々にして隣国に対し不信感を抱きがちである――だが、同じように、自国民に対しても同様の懐疑を持っているのではないだろうか。

私自身、日本人という存在やその言葉を、無条件には信じていない。これもまた、戦後の複雑な歴史と国家形成の過程からくる一つの“防衛反応”なのかもしれない。

日本文化と“経済至上主義”の帰結

日本は大陸文化と隔絶された島国であったがゆえに、独自の文化――武士道、切腹、俳句、能楽など――を形成してきた。それは美や死に対する感性、静謐さを尊ぶ精神性を育んだ。

だが、第二次世界大戦後の敗戦と憲法改正を経て、日本は「経済成長」を最優先する国家へと変貌を遂げた。軍事力を放棄し、平和憲法を掲げた新国家は、戦後の焼け跡から高度経済成長を実現する。その過程で、人々は生活の充実よりも“稼ぐこと”“消費すること”を第一とし、テレビも広告もその価値観に染め上げられた。

結果として「生きがい」は仕事に変わり、「教育」は競争に変わった。これはある意味で、日本人の精神的閉塞であり、現代社会が抱える深層的な病でもある。

労働の現場から見える現実

私は、倉庫作業やコールセンター、冷凍食品の仕分けといった現場労働を経験してきた。そこに共通するのは、低賃金で過酷な労働環境、そして社会的に顧みられにくい仕事であるという点だ。

こうした職場の人々は、社会の“見えないインフラ”を支えている。だが非常事態においてその負担は倍増し、それでも評価は上がらない。現場を知らず、理念だけを語る行政には、まるで図面の合わない建築計画のような“現実離れ”を感じるのだ。

「平和主義」の魔法

日本は“戦争の放棄”を憲法に明記した国だ。だが、それが現実に機能するかどうかはまた別問題である。武器を持たず、外圧にも軍事で応えられない国に、果たして「国防」や「危機管理」は可能なのか?

警察や自衛隊は本質的に“戦う集団”ではない。日本が掲げる平和憲法は、ある種の理想主義として美しいが、現実には催眠のような効力を持ち、人々を幻想に包み込んでいる。

終わりに――見えないものが明らかになる時代へ

パンデミックは、国の統治力だけでなく、国民一人ひとりの在り方、社会の脆弱性を暴き出した。インターネットを通じて情報が交差するこの時代、もう何も“隠しておける”ものはない。

新型コロナへの対応を通じて露呈するのは、日本人そのものの本性であり、私たち自身の「変わらなさ」そのものかもしれない。


関連リンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました