思春期と「恥」のはじまり|陰毛をめぐる記憶と心の成長エッセイ

エッセー

【恥の発生】陰毛と成長の記憶から考える人間の「羞恥」と「恐れ」

陰毛、またの名を恥毛。これは人間の性的な成熟の徴として現れるものであり、生まれたときから備わっているものではありません。誰しもいつかは生える、だがその「いつか」の時差が、少年たちにとっては重大な意味を持つことがあります。

思春期の小さな事件

思春期とは不確かさと比較の季節です。身体の成長もまた、人それぞれに進行速度が異なります。私が中学時代、とある宿泊行事で自分だけが「まだ生えていない」ことに気づき、それが周囲に知られるのではと恐れました。

結果的に、それはからかい半分に露呈され、クラスメートの笑いを誘いました。あれが私にとって「恥」を生涯で初めて強く意識した瞬間だったと思います。

恥はどこからやってくるか

アダムとイヴが「善悪の知識の実」を食べたあと、裸であることを恥じて身を隠した──この神話に示されるように、人間が「恥」を知るのは、“他者の目”を意識したときです。

私たちは成長とともに、他人からどう見えるかを意識するようになります。身体の変化は祝福でもあり、不安でもある。他人と違うこと、それが「劣っていること」と誤って結びつけられたとき、人は深く恥じるのです。

覆い隠す本能と恐れ

恥ずかしさを感じるとき、人は何かを隠そうとします。心を、身体を、あるいは記憶そのものを。

けれども、「恥」とは果たして否定されるべきものなのでしょうか? それはむしろ、自分自身を守るために生まれた心のセンサーであり、「人に見られる」ことの意味を私たちに問いかけてくる感情です。

「恥」を知ることは、同時に「恐れ」を知ることでもあります。そして「恐れ」を知ったとき、人ははじめて“自分”という存在に気づくのかもしれません。

結びにかえて

誰もが多かれ少なかれ、思春期に似たような体験を持っています。それはもしかしたら、笑い話として語れるようになるかもしれない。でもその裏には確かに、「他人の目にさらされた自分の不完全さ」への不安があったはずです。

「恥」とは人間が社会的存在として生きる証でもあります。だからこそ、あのときの自分を少しだけ労わってやりたくなるのです。

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