【ダグ・リーマン監督】映画『ザ・ウォール』レビュー|粘着スナイパーの言語的暴力と無慈悲の構造
『ボーン・アイデンティティー』で知られるダグ・リーマン監督による、アマゾン・スタジオ制作の異色戦争映画『ザ・ウォール』(2017年)。1時間30分という短尺ながら、極限まで削ぎ落とされた密室劇のような戦場スリラーである。
冒頭――荒野に転がる死体の意味
イラク戦争末期。石油パイプライン建設現場の調査に向かった米軍スナイパー・チーム。主人公アイザックと軍曹マシューズは、銃撃戦の気配すら感じられない奇妙な沈黙に包まれる中、頭部を撃ち抜かれた遺体群を目にする。
罠と壁
慎重を期すべきところ、マシューズが調査に出た瞬間、正体不明の狙撃手に撃ち抜かれる。アイザックも脚を負傷し、崩れかけた低い石壁の背後へ転がり込む。そこから始まるのは、身体的逃走不可能な状況下での、言葉による心理戦である。
無線の向こうの「声」
敵のスナイパー・ジューバは、無線に割り込むという形で登場する。最初は味方を装い、英語で通信し、安心を与えつつ情報を引き出そうとするその手法は、まるでネット上のフィッシング詐欺や悪質チャットのようだ。
ジューバはただ殺すだけでなく、相手の「反応」を楽しんでいる。語りかけ、質問し、煽り、脅す。その言葉の刃は、銃弾と同等かそれ以上の毒を孕んでいる。
インタラクティブな悪意
この作品の特異性は、ジューバが一方的に攻撃するのではなく、「対話」してくる点にある。これは心理的密室で行われる”ゲーム”であり、言語が武器となる。
視聴者は知らず知らずのうちにこのゲームに巻き込まれる。誰が味方で、誰が敵か。助かる道はあるのか。それとも、最初から敗北が約束されているのか。
終幕――無慈悲の再起動
本作の終盤は、典型的なハリウッド映画の枠組みから逸脱する。救出劇はなく、アイザックは力尽き、応援に駆けつけたヘリも撃ち落とされる。エンドロール直前、無線機の向こうから再びジューバの声が響き、新たな”獲物”への誘導が始まる。
感想・現代への示唆
この作品を観て筆者が想起したのは、かつてプレイしていたオンラインゲームで出会った悪質ユーザーの姿だった。執拗に嫌がらせをし、精神的に追い詰める者。ジューバの”存在しない身体”による支配は、現代の非対面的暴力構造と驚くほど重なる。
『ザ・ウォール』はただの戦争映画ではない。これは言語と沈黙、秩序と混沌、真実と虚構の”壁”についての寓話である。観る者自身の心理を試す鏡でもあるだろう。
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