【仏教の誤解と真実】原始仏典から読み解くブッダの教え〜『サンユッタ・ニカーヤ』より

哲学的偏見

【buddhism】仏教の生んだ誤解と原初の主要な教義についての論考〜『サンユッタ・ニカーヤ』より(1)

*本記事は中村元氏の訳本・岩波文庫『ブッダ・神々との対話』(サンユッタ・ニカーヤⅠ)に依拠しています。

仏教と葬式――広まった誤解

日本の片田舎に生まれた筆者の体験にもとづくが、仏教といえば葬儀、お布施、戒名、お墓というイメージが先行する。仏教の目的が「死の儀式」であるかのような誤解が日常に根付いている。

仏教における「善悪」の再検討

死後の天国・地獄という教育的方便。善い行いを積むと仏になれる、悪いことをすると地獄行き——こうした因果論的理解もまた、仏教の本質とは程遠い。

ブッダの正しい呼称とその教義

“仏陀”は「目覚めた人」の意で、死んだ人に対して読むお経ではない。仏=死者ではなく、生者の中で真理に目覚めた人のことを指す。“如来”とは真理の光によって衆生を救う者。筆者は彼を「尊師」と呼びたい。

サンユッタ・ニカーヤの詩的教え

激流

すべてが絶え間なく流転する「無常」の世界。ブッダはそれを「激流」と譬え、理法を知らずに流される者たちは死と悪魔に支配されると説いた。

瞑想

瞑想は単なるリラクゼーションではない。「理法」による統一と観察、「妄執」の根絶が目的である。「なおざりに拭けるな」と尊師は語る。

見解

尊師は思考や言説への執着そのものを戒める。なかでも「我が身体あり」という観念は最も危険だとし、刀が刺さったかのようにその見解を除去せよと語る。

名称と形態

「実体」は名称と形態への執着から生まれる。流転する諸要素に名を与えることで妄執が生じ、輪廻が始まる。瞑想によって「名称と形態」を根本から絶たねばならない。

結びに

仏教とは本来、極めて知的かつ実践的な思想体系であり、通俗的な葬式宗教ではない。その誤解が人々をむしろ真理から遠ざけている。次回は『サンユッタ・ニカーヤ』のさらに深い象徴と教義に踏み込んでいく。

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『ブッダ・神々との対話』再読レビュー
『スッタニパータ』中村元訳レビュー

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