この長編作品が生まれるまでには、作者の”海の百合”と呼ばれる花との現実の出会いがあった。その出来事は同名の小評論「海の百合」に書かれている。
この花は学名”パンクラス”と呼ばれる;力強く、香り高く、美しい花で、通常考えられないような過酷な自然条件でというよりも、そのような土地でなければ実を結ばないという、誠に驚くべき花だ、と言っている。
●関連エッセー→マンディアルグ小評論【海の百合】紹介・解説・感想〜イタリアのヴァカンスで出会った美しい花
恋愛形式
美しい花から直接霊感を受けたかのような素晴らしい恋の話。しかしこの小説の恋には現代の恋人同士で交わされる駆け引きや、人工的なやりとりはない。
三島由紀夫の「潮騒」と比較したくなるような透明感のある作品だ。だが「潮騒」の漁師の息子と長老の娘は結婚するが、「海の百合」はそうではない。
この作品は現代の<恋愛形式>に対し徹底した否定をする。まず名前を名乗り、自己紹介し、お互いを時間をかけて知ったあと交際を申し込む。
もちろん電撃的”一目惚れ”なるものがあっても、だからといってそれが”愛”なのだと確信するまでには普通ある程度の時間を要する。
さてこうして”付き合って”行くうち欧米の映画などでは”好き”が”愛してる”になり、”真剣”なものに変わる。やがて”結婚”し子供を作るなり家庭を築くなりし、年老いてどちらかが死ぬまで一緒に暮らす。
*参考だがマンディアルグ「大理石」では、十字架に架けられた巨大な妊婦の像や、骸骨と妊婦の絵や、結婚・家族・子供・妻の人形を展示するヴォキャブラリー館等が登場する。
●潮騒→三島由紀夫【潮騒】2017年最新レビュー・あらすじと感想
●大理石→【マンディアルグ】「大理石」II. ヴォキャブラリー 荒筋と解説
処女喪失
「海の百合」はサルディニヤ島が物語舞台であるが、自然のみがあり人工的な描写がほとんどない。ここに女友達のジュリエットと共に旅行に来ていた処女で美しいヴァニーナは、海辺である若者に出くわした。
一言も交わさず衝撃を受けたように目が離せなくなっている若者に、ヴァニーナは帰りがけに松林での逢引を持ちかけた。松林で彼女は若者に”愛している”と言い、夜泊まっている漁師の家にくれば窓越しに私の身体を見せると伝えた。
暗い蝋燭の光に映し出された全裸の処女の肉体を若者の視線に晒し、次回は松林に夜中会いにくるよう、そこで自分は若者の欲望の意のままになることを伝える。
その夜は月が出ていたが若者はヴァニーナを砂丘のような窪地へ連れて行き、その円形劇場の中心のそこだけ月明かりが射している部分で彼女を抱いた。
まとめ・感想
家まで送ろうとの申し出をきっぱり断って海で一人で身体を洗い、翌朝目覚めると急いで荷物をまとめ、車で友達と出発した。ヴァニーナは”愛”が色あせて腐って落ちるまでそれにしがみつくことなく、若者と島を後にする。
ここで物語は終わるが;若者に自分の名前だけは教えたが彼の名前すら知らない。おそらく次の日若者は彼女が泊まっていた部屋にくるはずだ。ヴァニーナの身体を求めて。恐ろしい快楽を忘れられずに。だがもう彼女はどこにもいない。
もはやこの世のどこでも彼女に会うことはできない。何も手がかりがないからだ。ただその記憶が消し難く若者の魂に刻印され、その幻を追い求めて彼は彷徨うことになる。ヴァニーナを失った彼は多分死ぬだろう。
同じくマンディアルグの短編小説「ダイヤモンド」でも、宝石の中に閉じ込められた処女が太陽光線とともに現れたライオンの頭を持った男に犯される。ライオンの男は太陽の光が宝石の中から出ると同時に力を失い、突然消え去るのである。