概要
角川文庫「マダム・エドワルダ」には、なんと処女小説「眼球譚」のほかに「マダム・エドワルダ」「死者」という短編小説二編がついている。さらに「エロテシィズムに関する逆説」という、バタイユのエロティシズムに対する考え方が一発でわかる長くない論文が収録されている。
そして「エロティシズムと死の魅惑」なる、バタイユが生前行っていたエロティシズムに関する講演討論会の議事録まで入っている!すごい充実したお買い得な内容だ。今回は上記論文と講演記録の紹介だが、講演に関する記事が中心を占める。なぜなら内容が重複するから。
●「眼球譚」はこちら→ジョルジュ・バタイユ【眼球譚】の内容カンタン解説〜レビュー・紹介
講演
1957年2月12日パリのレンヌ街44番地にあるセルクル・ウヴェール(文化団体)の集会でバタイユの講演は行われた。”エロティシズム”という名の議題に惹かれて集まったのは、一般の紳士淑女の他アンドレ・ブルトンやハンス・ベルメールらシュルレアリストをはじめとする文学者や学者たち。
この講演は「エロティシズムに関する逆説」で表されるバタイユの考え方をそのまま聴衆に向けて語ったもので、一連の長ったらしくない濃厚な講義のあとに討論会、そしてバタイユの解答で〆めという流れとなっている。非常に読みやすく当時のエロティシズムに対する一般・学者の考え方が垣間見れる良書である。
「黒いエロス」
バタイユがこのような講演を定期的に行っていたことは、筆者はマンディアルグの「黒いエロス」という小評論で読んだことがあり聞き知っていた。この評論の中でマンディアルグ氏はバタイユの考えを全面的に支持すると共に、これに異を唱える輩を痛烈に批判していた。
討論会においてもその様子がはっきりと窺われた。マンディアルグも聴衆として席にひっそりと連なっていたのであろうか。名前は出てこないが、読むと「黒いエロス」のライブ映像を観ているかのような感覚になった。すなわちバタイユの主張するのはエロティシズムの悲劇性であるのに対し、一部(というか大部分)の集団は「愛と自由」や「歓喜」の名の下にエロティシズムを歓迎するのであった。
●「黒いエロス」はこちら→マンディアルグの【黒いエロス】〜見直されなければならないエロティシズムの定義
「イギリス人」はこちら→【城の中のイギリス人】マンディアルグのエロティシズム小説
歓喜
マンディアルグもバタイユも同じく言っているように「愛」「自由」「希望」「光」「歓喜」といった天国的・天使的要素は、元来エロティシズムと正反対の要素なのだ。エロティシズムは死と密接に結びついている。そこは暗黒の領土なのである。
興味深いのは現代のようなポルノ天国ができあがるまでに人類が辿った道のりを覗けたという点だ。講演が行われていたのは1957年頃とすると、マンディアルグが「大理石」を出したのが1953年だからちょうどその時代だ。第二次世界大戦が終わって人々は平和な大量消費社会に向かって爆進している。
あとは人類始まって以来の夢である自由な性交天国を作り上げ、地上楽園を実現することである。素晴らしい思想は常にフランスからやってくる。民主主義の革命や自由の女神、そしてエロティシズム。さすがは感性の国民フランスだ。それらの思想は獣の国アメリカで精錬され全地に流れ出る。
●「大理石」はこちら→【マンディアルグ】小説「大理石」に隠されたシュルレアリスティックな秘密
性の解放
こうして性の自由な王国が出来上がった。私たちが住むこの世界である。しかしその結果何が起こったか?AVで満足し恋愛に無気力になった若者、晩婚と少子高齢化、ストーカー規制法によるハムレット的情熱の去勢。それら氾濫するAVはどれもくだらない、子汚いババアばかりで観ても全然興奮しない。
自由へ向かった大衆思想は反対に多くの軛を私たちに負わせた。もはや好きな相手のあとを付けることも待ち伏せすることもできない。声もかけられず下手に手紙すら渡せない。恋愛は禁止だらけで恐ろしく、そんなものに関わらず無難に過ごそうとする。
そのくせ情欲に任せて避妊しないで子供を産み、虐待したり捨てたりする。同意さえあればいつ誰とセックスしても構わない。唯一厳しくなったと思われるのが未成年者への性的愛と性交である。日本の江戸時代を引き合いに出さなくとも、西洋でもどこでも結婚は現在でいうところの小学校高学年や中学生レベルで出来た。
それは結婚という神聖な絆だからこそ許されていたのである。例を少しあげれば作家エドガー・アラン・ポー(19世紀)は24歳で13歳のヴァージニアという美しい少女と結婚した。また聖アウグスティヌス(5世紀)は30歳近くのとき10歳の乙女に求婚し婚約した。
●ポーはこちら→【エドガー・アラン・ポー短編作品】オリジナル・レビューまとめ
まとめ
で記事の主題は何だっけ?(笑)そもそも”エロティシズム”なる用語は文学・芸術のために生まれたのであったが、大衆はその意味を理解せぬままに自分たちの都合の良い解釈をしてきた。性の楽園を地上にもたらそうとして、反対に性の奴隷制度を造り上げた。
要するに言いたいのは大衆というものはこのような性質のものであること、エロティシズムは彼らの愚かな引導によって誤った方角へ行き着いてしまったということである。綺麗な部屋で微笑みながら裸で絡み合う恋人たちを見るがよい。そうじゃない、そうじゃないんだ!とバタイユなら叫ぶことだろう。