禅とは何か──チベット密教・仏陀の教え・ヨーガ思想との比較から ヨーロッパで静かに燃える「禅」ブーム
現代のヨーロッパ、テロや社会不安の只中で、じわじわと「禅(ZEN)」が静かなブームになっているという。
パリの路地裏、洞窟のような隠れ家──そうした場所で座禅を組む人々の姿は、まるで東洋の精神文化が異世界に根付いていく瞬間のようだ。
高校時代の禅体験
かく言う私も、高校時代に男子校の企画で、近所の寺で座禅会に参加したことがある。
姿勢を正して足を組み、じっと黙している。テレビでよく見る通り、もぞもぞと動こうものなら坊さんに肩を叩かれる。
「心を無にせよ」と言われても、思春期の男子にそれは無理難題だった。
──という話はさておき、本題に入ろう。
仏陀の「亀の譬え」
仏陀の説いた教えの中で、心を「亀」に譬える場面がある。
すなわち、外に突き出た四肢を甲羅に引っ込めるように、煩悩の雑念を沈め、意識を内に集めよ──という教えである。
ローマ皇帝マルクス・アウレリウスも『自省録』の中で「自分自身に」と呼びかけている。外界に分散する意識を回収し、内面へ集中することに真の力が宿る。現代人が「内なる沈黙」に惹かれるのも、この力に無意識に気づいているからかもしれない。
禅とセラピーの違い
西洋社会のセラピーや宗教的救済と、東洋の「禅」は決定的に異なる。
セラピーは話し合い、共有、支え合いに基づく。対話や共感を前提とした構造である。
しかし禅は、話すのではなく「黙する」。聞くのではなく「沈黙に耳を澄ます」。
誰かに癒されるのではなく、自分の内に力を見出し、掘り起こす行為なのだ。
自己の内にある「泉」を汲み出す
禅の根本にあるのは、外の世界に救いを求めず、自分の内にこそ泉(いのちの源)があるという考え方である。
この原理は、チベット密教のヨーガ修行や、ヘルメス主義のグノーシス思想とも共通している。
インドのタントラ文献においても、瞑想の目的は自己の意識の深部に至り、宇宙の本源と融合することにある。
チベット密教とヨーガにおける身体と意識の構造
ヨーガでは、身体には3本のエネルギー脈管が流れているとされる。
- 左:イダー(女性性・月)
- 右:ピンガラー(男性性・太陽)
- 中央:スシュムナー(精神の道)
修行者は呼吸と瞑想により、意識(ルン=風)を左右の経路に逸らすことなく中央のスシュムナーを通して上昇させていく。
この中央経路にはチャクラ(意識の通過点)が4〜7つあるとされ、最終的に意識は頭頂のサハスラーラに達し、宇宙的存在(最高神)との合一を果たす。
頭頂には「ブラフマンの孔」という霊的出口があり、ここから魂が抜けるとも言われている。
禅・密教・シュルレアリスムの接点
アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの小説『大理石』においても、主人公がヘルマフロディトス像の内部を通り抜け、頭頂部のバルコニーへ出る場面がある。
そこには、月光を浴びて輝く5つのプラトン立体が、浮遊しながら燃えていた。象徴と変容、瞑想と官能が融合する瞬間である。
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