哲学

【秘密曼荼羅十住心論】弘法大師〜感想紹介〜(第四回)

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誓願

禅宗には四弘誓願、真言宗には五大願があるが、形は違えど仏教徒の誓いという点では同じである。また根本的な三帰、十重禁戒、十善戒も然り。これらは本質的な仏教徒の誓いである。すなわち成すべきことは断固として実行し、成すべきでないことは断固として行わない。そのためには身命を惜しまない。

行いには三つある。すなわち身口意であり真言密教で言うところの三密であるが、三密と呼ばずともただ身口意で通じ、懺悔文にも出る言である。つまり人として生まれると身(体)と口(言語)と意(心)に依りて行いを生ずる。この三つについて気を付けることである。

筆者は日本の仏教をPUNK(パンク、1970年代のムーヴメント)に喩える。日本の仏教はあれに似た力を持つ。つまり仏教とは人をして限りなく夢中にさせるもの、醍醐という言葉があるように極上の美味(魅力)を持つもの、である。

これがなぜ単なる葬式の儀式になってしまい線香臭く年寄り臭い、死の匂いがプンプンする仕方なくやる時間潰しの強制された儀式のようになってしまったのか、特に田舎ではそうである。

次々に死ぬ高齢者が続出し、若者は少ない。和尚やお寺葬儀屋は大忙しの大繁盛、坊主は物惜みし寺からしっかり働いて大量に溜め込んだお布施、大事な財産が盗まれないようにお堂に鍵をかけ普段は誰も参拝できないようにする。

そうではない、そうではないんだ!!仏教とは生きるためのツールなのだ!

力は『図印大鑑』によると左手の人差し指に割り当てられる。密教で印相を結ぶに当たり、両手十本指に与えられている意味を知っておくとより印を結ぶのが楽しくなる。

仏教に力があることは古い大乗経典『法華経』などを読めば良く分かる。空海の『三教指帰』の原型である国宝『聾瞽指帰』の真筆が金剛峯寺にある。日本屈指の書道の達人とされる空海の筆跡を画像などで見ることが許されている。

『聾瞽指帰』は空海のパンクロック宣言のようなもの、セックスピストルズで言えばアナーキーインザUKの冒頭の雄叫びである。ラモーンズの電撃バップである。

この文字は、達人の書は龍や虎や蛇、あるいは蟲などに喩えられるが、筆者は叡智の火炎に喩える。仏教の燃える智の炎が燃えている、そのような文字である。

ただ真言宗が仏教のパンクスピリット的生きる力というか、衝動を継承している。証拠に密教やその系統の醍醐寺の修験道や山伏せのみ、生き生きしてお経や真言陀羅尼を唱える。気合い、というものである。他の宗派にはこの気合いがない。

気合の感じられないものは仏教と呼べない。他の宗派の念仏はその証拠に甘ったるい歌か、眠くなる子守唄、ハモったJ-POPのようなものである。でなければ死人を想起さす陰気臭いもの悲しいお勤めであろう。(以下次回へ続く)

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