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【方法序説】第一原理「我思う、ゆえに我あり」の奥深い解釈

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胎児

デカルト先生は『方法序説』を学者向けのラテン語だけでなく、当時の一般庶民でも難なく読めるようにフランス語でも出版してくれた;それは人でさえあるならば、別段お金のかかった高等教育を受けなくとも、真理や知識に到達することができるということを言いたかったからだ。

しばしばその著書において「自然の光」とパラケルスス的に名指しされる、この知識の片鱗は神聖なる種のごとく人間に備え付けられている。この種は物質界を超えた存在へと至る器官となり、最終的に別次元の身体になる。

もともと骨と肉でできた人間の肉体は、親の精子と卵子が結合しただ1個の細胞から成長し胎児となる。胎児は母親の胎盤の上で信じられないような方法で養われ、出生のその日に向けてプログラムされていく;これを考えれば

創造主が人間のもう一つの高次元の身体を、物質を超えた「理解力」あるいは「思惟力」という種から造り出すということは、充分有り得る。

モグラ

大脳の奥の奥に「大脳基底核」があるように、別の身体にも根底には「思惟」があると思われる。それがデカルトの言う「我思う」であり、ゆえに「我あり」の存在へ至る存在の発祥地点と考えられる。であるから「思惟」しない人は存在へと至ることは永遠にない。

「思惟」せぬ人は高次元肉体を授からないから、骨と肉の身体が生成消滅するとまともな身体を失う。後のことはわからない。モグラには目がなく、目が退化した跡のような器官があるそうな;使用しないと物を見るための目も台無しになるということをモグラは教えている。

このように高次存在へと至る種子である「思惟力」を使わないと、その器官は未発達状態になり、実を結ぶことはないのだろう。

曼荼羅

「我思う、ゆえに我あり」この第一原理に到達するまでの試行錯誤は『方法序説』に書いてあり、そのなかでデカルトは次のようなことを述べている「この世界も宇宙も存在せず、私の身体もないと疑うことはできるが、疑っているこの私が存在しないということは、絶対に疑うことができない」

しかしここでデカルト先生は秘密を隠している;すなわちデカルト先生の高次元肉体のことはここに書かれていないからだ。この身体について最も赤裸々に語っているのはチベット密教で、エロティックなため新約聖書にも少ししか触れられていない。

それは卑猥という見方をする道徳状の理由にある。この肉体は男女であり、裸であるからである。チベット密教の曼荼羅では中央に仏である男尊と、妃である女尊を膝の上に乗せて抱く姿があり、周りを全く同じ仏たちが取り囲む。

このような32相80趣向で飾られた仏の身体は「思惟」という種子が発達して各器官を形作り、最後に完成するのだと思われる。

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