【ヴァテック】ベックフォード作|ゴシック小説と快楽の地獄

小説

【ヴァテック】W・ベックフォード作〜快楽と傲慢が導く地獄へのゴシック伝説

18世紀末のゴシック文学を代表する傑作『ヴァテック(Vathek)』。その異様な幻想世界と道徳的破滅を描く筆致は、『オトラントの城』や『マンク』と並び称されるにふさわしい。本記事では正篇に焦点を当て、アッバース朝のカリフ・ヴァテックの物語を辿る。

作者ベックフォード──塔に籠もる異端の富豪

ウィリアム・ベックフォードは、イギリスの巨万の富を継承した異色の文人・美術収集家である。音楽にも秀で、モーツァルトが家庭教師を務めたこともある才人。若くして膨大な蔵書と美術品に囲まれた生活を送り、自ら設計した壮大なファンタジー建築「フォントヒル・アビー」の塔に引きこもった。

澁澤龍彦は彼を「バベルの塔の隠者」と称し、その美的偏執と現実逃避の姿勢に一種の異端性を見出している。

快楽に満ちた5つの館

ヴァテックは神々しい風貌と絶大な権力を兼ね備えた理想的な王。しかしその一方で、五感すべてに対して異常なまでの快楽主義を貫いていた。

  • 視覚:美術品と奇品に満ちたギャラリー
  • 嗅覚:世界中の香木と香料
  • 聴覚:陶酔的な音楽の宴
  • 味覚:贅の限りを尽くした饗宴
  • 触覚:美女たちが侍る官能の館

そのどれもが、王の欲望の深さとこの世的支配の象徴として設けられていた。

魔視と傲慢の王

さらにヴァテックには「魔視」と呼ばれる能力があった。怒りの極みに達すると、その右眼は妖しく光り、睨まれた者は即死するという。

こうした圧倒的な存在感を持つ王は、占星術と神秘学に傾倒し、母である太后カラティスとともに、星の運命を解読するため塔を天へ向けて建て始める。

異端の使者と読めぬ剣

ある日、凶悪な顔つきの異邦人が宮殿に現れる。彼はゾロアスター教の拝火教徒ジャウールであり、王の魔視をも恐れぬ異端者だった。

ジャウールが残した品のひとつに、謎の文字が刻まれた剣があった。知者たちが解読を試みるも失敗が続き、ようやく一人の老賢者が次のように読み取る:

「物みな驚異であり、驚異に満ちた世界に我らは造られた」

しかし翌日にはその文字が変容し、不吉な預言へと変化していた。

ソロモンの護符と子供たちの犠牲

再びジャウールと接触したヴァテックは、恐ろしい取引を持ちかけられる。地面に開いた裂け目に50人の子供を生贄として投げ込めば、地下宮殿に眠るソロモンの護符と宝物を授けようというのだ。

ヴァテックは母とともにこの提案を受け入れ、罪なき民を犠牲にしながら古代都市イスタカールへ向かう。その途中で出会った絶世の美女と共に、彼女を妻として地下世界への旅を共にすることになる。

黒い階段と地下宮殿

ピラミッドの傍らにある黒光りする高台で、地面が裂け、ジャウールの声が響く。螺旋状の漆黒の階段が現れ、蝋燭の灯りの中を二人は駆け下る。

地下宮殿では、苦悶に満ちた者たちが心臓を押さえて彷徨っていた。恐るべきことに、これは永遠の罰の光景だったのだ。

心臓の火と堕落の結末

ヴァテックが玉座に着いた瞬間、彼の心臓は青白い炎に包まれた水晶のように燃え始めた。快楽と力への執着ゆえに、彼はついに地獄へと到達したのだった。

ムハンマドの救いも、天の慈悲も、もはや届かない。欲望の先に待っていたのは、永遠に燃える心臓の痛みと孤独であった。

作品の意味と感想

『ヴァテック』は、一見すればエキゾチックな幻想譚である。しかしその奥底には、欲望と罪、知と傲慢の末路、宗教と異端のせめぎあいといった、近代以前の深いモラル観と批判精神が潜んでいる。

マルキ・ド・サドの影響も色濃く、破滅へと向かう「悪の王」の姿は、どこかドン・ジュアンやファウストのような香りも漂う。

奇書・怪書好きには必読の一冊だが、原書・翻訳ともに入手困難な場合もある。図書館の利用も視野に入れてほしい。

関連リンク・参考書籍

ヴァテック (バベルの図書館 23)

【オトラントの城】〜イギリス・ゴシック小説の祖・ウォルポール作

【マンク】〜修道僧が悪魔と契約・少女を陵辱/M・G・ルイス作

【ウィリアム・ブレイク】〜知覚の扉を開く預言者の詩

コメント

タイトルとURLをコピーしました