1966年に発表された三島由紀夫の短編小説『英霊の聲』。本作は、ある霊媒師の元に集まった人々が、かつて命を散らした青年将校や特攻隊員の“声”を聴くという異様な設定の物語です。
呼び出された霊たち
降霊によって語り出すのは、2.26事件で処刑された青年将校たち、そして神風特攻隊の若者たち。三島は、まるで自らが彼らの声に“憑依”されたかのように、彼らの想いを代弁しています。優れた作家とは、想像力という名の領域を超えた、ある種の霊的媒体でもあるのかもしれません。
能楽・古神道との接続
本作は日本の伝統芸能・能の構造を意識して書かれており、演劇的な時間構成や霊の登場にその影響が見られます。また、キリスト教的な“神”ではなく、古神道的な“霊”の存在が前提とされており、神道や日本神話の素養が理解を深めるカギになります。
三島自身、戯曲『サド侯爵夫人』や『我が友ヒットラー』でも能の形式を取り入れたと語っており、本作もまたその延長にあるといえるでしょう。
あらすじ:語る霊、歌う霊
月夜の大海に集う英霊たち。物語の媒介者となるのは盲目の青年・川崎君で、彼は次々と霊を憑依させ、ついには生命を使い果たして絶命します。神霊の言葉を導くのは“審神者(さにわ)”と呼ばれる木村先生。彼の導きによって、霊たちはそれぞれの言葉と想いを語り、時には歌います。
クライマックスにはポルターガイスト的な現象まで発生し、純文学というよりもスピリチュアル・ホラーの趣も感じさせます。
天皇という存在
共通するのは、霊たちが“天皇のために”命を捧げたという点です。戦前の天皇は“現人神”とされ、彼らにとっては神そのものでした。しかし、敗戦後の「人間宣言」によって、その存在は“象徴”に変わった。
三島の割腹自殺時の「天皇陛下万歳」の叫びは、現実の天皇ではなく、古来の“神”としての天皇に向けられたものであったと考えるべきでしょう。東大全共闘との討論でも、彼は一貫して“天皇とは何か”を問い続けていました。
「見る」という行為
三島の文学世界で重要なのは「見る」ことです。特攻隊の描写では、読者は彼らの視点とともにアメリカ空母へと突撃していきます。三島は“見ること”そのものに、ある種の神聖さと欲望を感じていたようです。
しかしこの「見る」は、知識や理性に繋がる“観察”ではなく、もっと直接的で本能的な体験です。それが彼の武士道観や死への志向と直結しているため、彼の思想はしばしば“理性なき欲望”のようにも映ります。
切腹という儀式と三島事件
和田克徳著『切腹』によれば、武士道における正式な切腹とは、刃を浅く刺して一文字に引き、返すか喉を突くものでした。腸が露出するほど深く刺す「無念腹」は美学に反するとされています。
三島の切腹は、腸が飛び出すほど深く刺したうえ、介錯人・森田必勝は三度も斬首に失敗しました。これは武士道においては大いなる失態です。さらに、予定されていた血で書く「武」の字も、演説の混乱で果たせず終わります。
もし三島の霊が今もこの世に語りかけるとすれば、「俺の真似はするな」と言うかもしれません。切腹すら美学の一部であった彼にとって、それが理想通りに完遂できなかったことは最大の皮肉でしょう。
📝 関連記事リンク: ▶︎ 『憂国』レビュー ▶︎ 『英霊の絶叫』解説 ▶︎ 和田克徳『切腹』レビュー ▶︎ 東大全共闘との討論動画
コメント