外道──道を外れるもの
仏教における「外道」とは、仏法以外の一切の教えを指す。文字通り「道を外れた者たち」であり、サンスクリット経典を翻訳した三蔵たちは、この語に老荘思想の「道(タオ)」の観念を重ねて訳したと思われる。
『法華経』如来神力品には、「いかなる時いかなる所においても塔を建て、経を供養すべし」とある。そこがすなわち「道場」であり、三世諸仏が無上の悟りを得る場である。よって、仏法を求める者は、外道とは明確に区別される。
『秘密曼荼羅十住心論』においても、外道は極めて低い住心の段階に分類される。
無為──つけ足すな、ただ聴け
無為を志し、人為を貶む──それは荘子の哲学であり、仏法の核心でもある。近代に入ると西洋的な「偉大さ」が流入し、それが仏教的価値観を狂わせ始める。
例を挙げよう。ベートーヴェンやワーグナーの音楽を「偉大」とする考えはどうか?大人数の演奏者、豪華な楽器、建築されたホール──これらの装飾に「偉大さ」を感じるのか?
いや、風や鳥、水の音──禅定に入った耳が聴く自然の音こそ、仏法の声ではないか。何かを足すのではなく、そこにあるものをそのまま聴く。それが道だ。
二乗──逃げるだけの乗り物
仏典では、仏教の修行者を「乗(のりもの)」で分類する。大乗(菩薩)、声聞、縁覚の三つであり、後者の二つを合わせて「二乗」と呼ぶ。
声聞とは、教え(声)を聞いて悟る者。縁覚とは、自分で縁起を悟る者──いわば隠者や仙人だ。荘子はこの縁覚に近い。だがいずれも、自分ひとりの悟りを目的としており、他者を救う菩薩道には至らない。
『十住心論』では、この二乗もまた低位に置かれている。それ以下の外道は、ギリシャ哲学や現代の「功名と利得を求める学者」たちであり、羊狗(ようく)レベルとさえ形容される。
そして“道”はつづく
空海が描く菩薩道は、外道・二乗のさらに上にそびえる高みにある。だが本稿では、そこまで追わない。
──なぜなら、この第七回をもって、このシリーズは完結するからだ。
密教の奥義には触れず、あえて門前で筆を置く。これもまた、無為のひとつである。
(ご愛読、ありがとうございました。)
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