空海『十住心論』と日本密教の伝達|真言の神力と天皇制の思想

疑似学術地帯

十住心(続き)──なぜ日本の密教はわかりにくいのか?

空海によって日本に伝来した密教経典群。だが現代の私たちにとって、その意味はあまりに掴みがたい。チベット密教に慣れ親しんでいる人にとって、日本の密教は「異様に複雑で難解」だと感じられるかもしれない。

筆者自身もかつてはそうだった。チベット曼荼羅の直観的な美しさに比べ、日本のそれはとにかく抽象的で、何を描いているのか分からない。しかし、ある教授の解説と仏教辞典を通じて、その違いの理由がようやく見えてきた。

密教の系譜──東西の宗教が交差する場所

インド密教には「初期・中期・後期」があり、初期の段階は「雑密」と呼ばれる。これは陀羅尼や本尊信仰が混然と入り交じった状態で、体系化される前の段階である。つまり密教とは、最初から整然とした哲学ではなく、むしろ混沌から生まれた宗教現象だった。

西洋に目を向けると、ミルトンの『失楽園』も同様に聖典的イマジネーションで異教と正統を接続しようとする試みだし、ガンダーラ仏像にはギリシャ彫刻の影響が色濃く現れている。さらに言えば、梵語(サンスクリット)はゾロアスター教の古代語とも共通性がある。

こうして見ていくと、宗教は国境も時代も越えて混じり合い、東西で驚くほど似通った表現を生んできた。グノーシス派のように、異教とキリスト教が融合した神秘思想もその一例だ。

伝達と受容──空海から日本へ、密教が根づくまで

日本で仏教がどう受容されたかを考える上で、よく知られているのは禅宗や浄土宗の「世界への発信力」である。鈴木大拙らによって、これらは“日本的霊性”として欧米に紹介された。

しかしその紹介には誤解もあった。禅や浄土系が「分かりやすさ」で受け入れられる一方、真言密教は「深さ」と「儀軌の重さ」で、より特権的な地位を日本国内で築いてきた。

近代以降、修験道や真如苑、お遍路などの密教文化が一般に広まってきたのも、真言密教の神秘性と情緒が私たち日本人の感性を強く揺さぶるからだろう。

その証拠に、今でもヤフオクでは密教法具の熾烈な争奪戦が繰り広げられている。真言密教の火は、現代にも確かに生きている。

空海と天皇──密教国家・日本の成立

空海の生きた平安初期は、まだ天皇が絶対的な権威を持っていた時代である。『平家物語』が描く鎌倉時代の武家支配とは対照的に、空海は天皇の命によって密教を日本に伝えた。そして『秘密曼荼羅十住心論』は、まさに国家プロジェクトの一環として書かれた思想書である。

こうして国家主導で密教が広められ、年中行事や宮中儀式にまで定着した。まるでクリスマスやバレンタインのように、真言の儀軌は日本の四季に根づいた文化となっていった。

私たちが今、空海の教えに触れることができるのも、天皇が仏教を支持し続けたからである。聖徳太子も空海も、その根底には「国家と仏教の一体化」があった。

鎌倉新仏教への違和感

やがて鎌倉時代に入ると、仏教は民衆の間に広まり、大衆化が進む。教えが簡易化され、各宗派が乱立するなかで、仏教の「深さ」はしばしば失われていった。

鈴木大拙がこの流れを“日本的霊性”と名づけたが、それは真言密教のような体系的な密教哲学とは異なる「大衆化された宗教観」でもあった。空海が築いた知と儀式の塔は、今もなお高野山に聳えている。

(以下、第三回へ続く)

コメント

タイトルとURLをコピーしました