はじめに──空海の思想に挑む覚悟
『秘密曼荼羅十住心論』──この圧倒的な題名だけで心が騒ぐ。空海の全著作の中でも屈指の重厚さを誇る本書は、仏教思想の深淵を覗き込む行為にほかならない。今回用いたのは、岩波書店『日本思想体系』第5巻。ずしりと重いハードカバーを机に据え、書見台に置いてページをめくる。気づけば熱中しすぎて頭に血が上るほどだった。
この第一回は、いわばその準備体操である。空海の言葉に耐え得る精神と知的筋力をどう整えるか。以下、そのための導入を記しておきたい。
読む前に揃えたい「三種の神器」
『十住心論』は一読して理解できる書ではない。まず最低限、以下の三点は押さえておく必要がある。
- 『摩訶止観』──空海も強く影響を受けた天台智顗の瞑想理論。幽玄な哲理に満ち、精神の耐久力を養う訓練書。
- 『三教指帰』(さんごうしいき)──空海の処女作。儒・仏・道を語り合う戯曲仕立ての一冊で、文体のリズム感を体で覚えるのに最適。
- 漢文訓読+仏教辞典──必須。現代語訳だけでは空海の思想の「香り」が抜けてしまう。訓読文で原典に触れるべし。
「秘密」とは何か?──誤解されがちな言葉
本書の題名にある「秘密」とは、現代の「隠された事柄」の意ではない。むしろ、「言葉では語れぬ真理」「体験的にのみ触れ得る境地」としての秘密である。空海の生きた時代の日本語も、漢字の意味も、現代とは大きく異なる。その距離感を埋める努力こそが読書の修行なのだ。
紙面の密度──訓読・註釈・補註の世界
本書の構成は、密教経典の引用+詳細な註解で成り立っている。これは聖徳太子の『法華義疏』にも似た様式であり、空海は古代の解釈学を継承しつつ、自身の哲学的視座を冒頭などに垣間見せる。その一文一文には、修行と詩情が混ざり合っている。
「十住心」とは何か?
『十住心』という用語は空海の造語ではない。『大日経』『金剛頂経』などの密教経典に登場する言葉であり、それぞれ「胎蔵界曼荼羅」「金剛界曼荼羅」に対応している。恵果阿闍梨によって統合され、空海が日本で発展させた両界曼荼羅の思想体系が背景にある。
曼荼羅とは絵画ではない。人間の身体、地方の風景、思惟の構造までも含む「世界そのものの地図」である。十段階に分かれた心の状態「十住心」は、この地図を辿るための思想的階梯であり、空海による仏教的心理学とも言える。
おわりに──空海にしか到達できなかった高さ
私は思う。独創的な哲学を語れる日本人は稀有である。だが、空海にはその資質があった。真言密教の深さと広がりは、彼の言語と思索の力があって初めて成立したものだ。そして、その系譜に連なる者たちもまた、驚くほどの高みにいる。
本記事はあくまで導入であるが、それでも空海の世界への入り口としては充分に意義ある一歩となるだろう。
今後、各「住心」ごとの探求も予定していたが、筆者の修行未熟ゆえ、道半ばで筆を置いている。しかし、たとえ一章だけでも──この言葉と思想の深みに触れる価値はある。
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