『法華経』岩波文庫版を読む|日本人の宗教観・倫理観の根源をなす大乗経典

疑似学術地帯

【法華経】岩波文庫(上中下三冊組)レビュー

― 日本的善悪観の根源をなす経典の読解 ―

概説:仏教受容の基盤としての『法華経』

『法華経』(正式名称『妙法蓮華経』)は、大乗仏教を代表する経典の一つであり、仏教が東アジア諸国に広まる際、特に日本においては極めて中心的な役割を果たした。史料的には、飛鳥時代、仏教とともにこの経典が日本へ伝来したとされ、聖徳太子による注釈書『法華義疏(ほっけぎしょ)』により、その教義は早くも体系的に受容・整理されていたことがわかる。

中世以降に至っては、鴨長明の『方丈記』に「法花経一部」所有の記述が見られるなど、知識人層において経典所持は信仰と教養の証しでもあった。日本仏教、とりわけ法華信仰(天台宗・日蓮宗等)の展開において、この経典が占める位置は計り知れない。

日本人と仏教:文化的下地としての「唱題」

日本人にとって、仏教は生活習俗に深く根ざしており、その最たる象徴が「お経」である。法事や葬儀において僧侶が唱える経文、あるいは子供が真似して口ずさむ「なんみょうほーれんげーきょう」は、その一端を示している。

西洋社会においてキリスト教が洗礼と聖餐を軸に個人の信仰を確立させるのに対し、日本仏教は儀礼や読誦を通じて無意識のうちに共同体的精神を涵養してきた。この点からも、法華経の持つ呪文的・声明的な側面が日本人の宗教感情と密接に結びついていたことは見逃せない。

岩波文庫版『法華経』の構成と特徴

本稿で取り上げる岩波文庫版『法華経』は、上・中・下の三冊に分冊されている。各巻はかなりの厚みを持つものの、実際の本文量は控えめである。その理由は、ページごとの構成にある。

見開き右ページには、梵語原典を中国語に漢訳した経文(六朝仏典体の漢文)およびその訓読文(日本語古文形式での読み下し)が並び、左ページにはその現代語訳が対応して掲載されている。さらに巻末には詳細な解説と注釈が附されており、読者は原典、和訳、訓読の三層構造を同時に読み解くことができる。

このようなレイアウトは、原文への敬意と現代読者への配慮が見事に両立しており、特に漢文素養を高めたい読者にとっては非常に優れた学習資料ともなる。

漢字文化と「経」の意味

「経」とは元来、織物の縦糸を指す言葉であり、「緯」は横糸を表す。中国における儒仏道の古典が「経書」と呼ばれるのも、縦糸のように変わらぬ普遍性と秩序の軸として位置づけられるからである。さらに地理学における「経度・緯度」もこの語義に基づく命名である。

『法華経』における一字一句も、単なる音読を超えて、こうした漢字の本義と訓読文化を背景にした「言葉の織物」として理解されるべきであろう。とりわけ日本における「訓読」という営為は、漢文という異文化を自文化の中に取り込むための、知的にして詩的な創造行為であった。

「南無妙法蓮華経」の意味と精神

日本仏教において広く唱えられる「南無妙法蓮華経」は、法華信仰の象徴的な題目である。「南無」はサンスクリット語「ナマス(namas)」の音写で、「帰命する・身を委ねる」という意味を持つ。それに続く「妙法蓮華経」は、経典そのものを指す。よって、「南無妙法蓮華経」とは、「私は妙法蓮華経に帰依いたします」という信仰告白である。

このような一文に凝縮された信仰の形は、経典の長大な論述を生活の中に取り込むための最も端的な形式であり、法華経における「言葉の力」「声の功徳」を体現している。

読解の意義と現代的価値

『法華経』は、仏があらゆる衆生を「仏」へと導くと説く経典であり、その根本思想は「一乗思想」にある。すなわち、声聞・縁覚・菩薩といった三乗の教えは方便に過ぎず、最終的には全てが仏になる可能性を有するという普遍的救済の理念である。

現代日本において宗教的実践が衰退する一方、倫理の基盤としての仏教思想が再評価されている。『法華経』を読むことは、単に宗教的体験ではなく、言語・思想・文化の深層に触れる知的営為である。


日本人として『法華経』を一度も読んだことがないというのは、まさに自国の文化の心臓を知らないに等しい。岩波文庫のこの三冊組は、仏教文化の精神的遺産をたずねる上で、最良の伴走者となるだろう。

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