【サンユッタ・ニカーヤⅡ】『ブッダ 悪魔との対話』中村元訳・岩波文庫より――内容紹介と感想
書籍概要と第一印象
岩波文庫『ブッダ 悪魔との対話』は、同社の『ブッダ 神々との対話』の姉妹編にあたる一冊である。以前『神々との対話』については紹介したが、こちらもまた、仏教思想を身近に触れることのできる重要な文献である。
タイトルに“悪魔”とあることから、当初はどこかオカルト的な、いわば「エクソシスト」的な内容を連想して敬遠していたが、実際に読んでみるとその印象はまったく裏切られた。確かに冒頭では悪魔マーラが登場するが、それ以降は、尼僧・バラモン・在家信者・帝釈天・梵天・ヴァンギーサ長老など、多様な登場人物が詩句を交えて仏陀の教えを語っていく。内容はきわめて人間的で、詩的であり、時に厳粛である。
原始仏典の一断面として
本書に収められているのは、パーリ語経典『サンユッタ・ニカーヤ』の第1集および第2集に該当する部分である。第1集「神々との対話」、第2集「悪魔との対話」の2冊を通読すれば、『サンユッタ・ニカーヤ』全11集のうちの“詩句をともなった”部分をほぼ網羅することができる。
学術的な完全版を読むとなると専門的な素養が求められるが、この2冊は一般読者に向けた優れた入門書となっており、仏陀の思想の核心にふれるには十分な価値がある。
『神々との対話』が、仏陀の根源的で明晰な教えを詩的に凝縮した厳粛な聖典であるとするならば、『悪魔との対話』は修行僧たちの迷いや葛藤、実存的な恐怖と欲望といった“心の戦い”をテーマにした、生々しくも深い一冊である。
三宝の教えとその真意
本書のなかで特に印象的な教えは、帝釈天篇に登場する「旗の先」の一節である。弟子たちに向けて仏陀は語る:
「恐怖に襲われたときは、①仏(わたし)を憶念せよ、②法(教え)を憶念せよ、③僧(集い)を憶念せよ」。
これがいわゆる“三宝”(仏・法・僧)の実践的な示し方であり、私たちが日常で「仏様に祈る」と口にする行為の背後には、本来このような意味があるのだと気づかされる。
“憶念”という言葉は現代日本語で無理に理解しようとせず、漢字の形そのもの――記憶と思念のあいだにあるような心の作用――として読むことが推奨される。
仏陀自身の人格への敬意(仏)、理法の真理への信仰(法)、そして修行共同体の霊的支え(僧)――これら三つの“想起”によって、恐怖や苦悩の淵にある者の心は次第に浄められていく。
生成と執着――ペーシーの断片
終盤には、人間の肉体がどのようにして形成されるかについての記述も現れる。たとえばヤッカ篇の「インダカ」ではこう語られる:
「まずカララができ、次にアッブダができ、そこからペーシーが生じ、ガナが形成される。ガナからパサーカ(身体の肢節の分かれる状態)が生まれ、髪の毛や爪が生ずる。かれの母が食べて摂取するもの、ー食物と飲料と吸うて食べるもの、母胎のうちにいる人は、それによってそこで成長する。」
この「ペーシー」や「ガナ」などの語は註釈でも明確に定義されていないが、現代の知識を重ねることで、胎児の発生段階を比喩的に表現したものであると読み取ることができるだろう。
すなわち、仏教的な観点から見ると、人間の苦しみはこのように肉体が形成されたその最初の瞬間から始まっており、解脱を遂げないかぎり“心”はこの肉体を引きずることになる。
このような肉体の連鎖的形成――生成から老衰、そして死にいたる一連の過程を静かに見つめること。それが「仏教における身体観」への扉でもある。
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