逃げるアタランテ――音楽と錬金術が婚姻する書物
「逃げるアタランテ(Atalanta Fugiens)」――この書名に聞き覚えがある人は、相当な錬金術マニアだろう。しかし、この本が“聴ける書物”であることは、意外と知られていない。
著者はミヒャエル・マイヤー(1568–1622)。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に仕えた錬金術師で、1617年にこの幻想的な書を世に送り出した。全50章から成る構成は、以下の三重構造になっている:
- 象徴的な銅版画(50枚)
- 詩(50編)
- 講釈文(50節)
そしてさらに、各章には全50曲のフーガ(遁走曲)が添えられている。つまりこれは、音楽・詩・絵画・哲学が融合した、ルネサンス版の“マルチメディア書物”とも言える存在なのだ。
フーガ――遁走する楽譜
フーガとは、テーマが複数の声部で追いかけ合うように展開される楽曲形式である。「トッカータとフーガ」などで知られるバッハが有名だが、実は古くから哲学的・象徴的な意味も含んでいた。
Apple Musicで聴ける『Atalanta Fugiens』のフーガは、クラシックというよりもむしろ神秘的で瞑想的。現代の耳にも心地よく響く。エニグマやデレリアムなど、癒し系のダンスミュージックが好きな人にもおすすめだ。
*Apple Musicで聴く▶Maier: Atalanta Fugiens
アタランテ神話の美と知恵
アタランテーはギリシャ神話に登場する俊足の女性である。彼女は求婚者たちに自分との競走を挑み、敗れた者は死刑に処すという掟を課していた。
しかしヒッポメネースだけが、女神アフロディーテーから授かった3つの黄金の林檎を使って彼女の注意を逸らし、勝利を得る。グイド・レニによる絵画では、アタランテーは薄衣一枚で描かれ、林檎を拾う姿にはどこか神秘的な魅力が漂う。
この神話は、知恵(ソフィア)への到達には機知と美、そして誘惑の力が必要であることを象徴している。まさに錬金術が求めた「賢者の石(哲学的知性)」の寓話といえるだろう。
錬金術の深奥に潜む象徴性
錬金術は単なる金属の変成術ではない。そこには神話・象徴・哲学が折り重なり、魂の錬成と宇宙との調和を目指す壮大な精神的作業があった。
「逃げるアタランテ」はまさにその象徴的書物であり、音楽と詩と図像によって、言葉では伝えきれない“知”を読者に投げかける。
ミヒャエル・マイヤーとルドルフ2世
著者ミヒャエル・マイヤーは、芸術と神秘学をこよなく愛した神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷に仕えていた。この皇帝のもとには錬金術師、占星術師、芸術家らが多数集い、プラハはルネサンス期ヨーロッパのオカルティックな一大拠点となった。
その文化背景が、「逃げるアタランテ」の幻想的構成を可能にしたのである。
追記――現代から古のアタランテへ
本稿の発端となったのは、A・P・マンディアルグの長編小説『すべては消えゆく』を再読したことだった。物語の中で、若き女性ミリアムと主人公ユーゴーは、パリの街を疾走する一人の女性を目撃し、その姿を「アタランテのように美しい」と称賛する。
しかしこの比喩は単なる形容では終わらない。小説内ではアタランテ神話について丁寧に2ページ近く語られており、さらにグイド・レニによる絵画にも言及されている。神話、芸術、現代の都市風景が交錯するその描写には、明らかに錬金術的な象徴の匂いが漂っていた。
その一連の描写が、まるで導きのように、ミヒャエル・マイヤーの『逃げるアタランテ(Atalanta Fugiens)』を“再び手に取るべき書物”として、私に提示してきたのである。
50枚の版画、50の詩、50の講義、そして50のフーガ。音楽と視覚と言葉の三重構造によって語られる錬金術の奥義。それは“逃げる女神”に秘められた知恵(ソフィア)への賛歌であり、今なお私たちの想像力を燃え立たせる夢幻の書なのである。
◯マンディアルグ『すべては消えゆく』の記事はこちら→【マンディアルグ】長編小説「すべては消えゆく」〜20世紀末賢者の預言〜
コメント