ウィリアム・ブレイクの「感覚」論|五感が映す世界と魂の視座

詩煩悩

ウィリアム・ブレイクと「感覚」――五感が開く世界の扉

五感とは何か

ウィリアム・ブレイクの代表作『天国と地獄の結婚』には、しばしば「感覚」という言葉が登場する。ブレイクにとって、感覚とは人間の精神世界への扉であり、天使と悪魔の間を往還する鍵でもあった。

一般に、人間の感覚は五つに分類される。視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚――この順番は、魂や脳が受ける影響の大きさによっても並べ替えられるだろう。多くの人にとって、最も強い影響を及ぼすのは視覚であり、次に聴覚、触覚が続く。そして匂いを感じ取る嗅覚、味を感知する味覚がある。

視覚・聴覚・触覚のしくみ

視覚は、2つの眼球を通して世界の色や形を脳へ伝える。視界に映る像は、まるでスクリーンに映し出された映画のように処理され、私たちはそこに「現実」を見ている。

聴覚は、左右の耳が空気の振動――音や声――を拾い、脳に届ける働きを担う。骨伝導ヘッドホンのように耳以外の経路もあるが、ここでは原始的な器官の役割に絞って考えたい。

触覚は全身を覆う皮膚に宿り、外界との接触を通じて感覚を生む。だが、皮膚がなくとも神経は感じる。骨や内臓にまで達する「痛覚」は、触覚と表裏一体の存在だ。

第六感は存在するか?

「第六感(sixth sense)」という言葉がよく使われるが、それは本稿の射程外である。というのも、五感は肉体に備わった生理的な装置であるのに対し、第六感は経験や直感、あるいは霊感といった曖昧な領域に属し、物理的根拠が乏しいからだ。

視覚と「現実」の構築

感覚の中でも、視覚は特に重要だ。私たちは、視覚によって得られた情報をもとに「空間」や「存在」を理解する。映画『マトリックス』のような話に飛躍するつもりはないが、私たちは見ることで「世界」を信じている。だが、それは本当に存在そのものなのだろうか?プラトンが言う「真の存在」とは異なり、視覚が捉えているのは単なる情報に過ぎない。

映画館と感覚の比喩

映画館でスクリーンに映し出された映像を観るとき、周囲は闇に沈む。視覚も同様に、私たちの眼前にある世界というスクリーンを観ている。VRのように360°の映像が可能でも、我々の眼球は固定され、回転可能な首に支えられているに過ぎない。

たとえ全方向を観察できても、情報は常に「まぶたの隙間」から流れ込むわずかな光でしかない。その光を受け取るのが脳であり、情報を意味づけるのが「理性」や「魂」と呼ばれるものだ。

視覚で得た情報を「スクリーン上の映像」として見るのか、「現実」として受け入れるのかは、結局その人の精神、あるいは哲学によって決まるのだ。

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