【いろは歌】和歌に込められた仏教の教え|諸行無常と雪山童子の物語

はじめに

「いろは歌」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。現代においては、単なる五十音の並び、いわば日本版アルファベットのように捉えられることが多い。しかし、その一見単純な歌には、実は深い仏教的意味が込められていることをご存じだろうか。

本稿では、筆者自身が「いろは歌」の意味に気付いたきっかけから出発し、この和歌と「諸行無常」との関係、さらには釈迦の前世譚「雪山童子」に至るまで、いろは歌に隠された仏教的メッセージを丁寧に紐解いていく。

いろは歌との出会い

「いろは歌」については既に多くの解説がなされており、辞書やWikipedia等から基本情報を得ることは容易である。筆者自身も、以前は“いろは”と“へのへのもへじ”の区別さえ曖昧だった。しかし、仏教書『往生要集』を読んでいた際、ある偈(詩)に注目が集まった。

「諸行は無常なり、是生滅の法なり。生滅を滅して、寂滅をもって楽と為す。」

この偈は、なんと「いろは歌」の思想的源流であるとされていたのである。驚きと共に、筆者はこの和歌の背景にある仏教的文脈に強く惹かれるようになった。

和歌としての「いろは歌」

「いろはにほへど ちりぬるを わがよたれぞ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみじ ゑひもせず」

現代仮名遣いで直すと、
「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
という、実に美しい和歌の形をとっている。この歌が仏教の根本教理「諸行無常」を詠じたものだという説は、古来より有力視されてきた。

さらに調査すると、この思想は『大般涅槃経』に見られる次の偈に基づくものであることがわかる。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽

この短い四句の中に、仏教的世界観の核心が凝縮されている。「いろは歌」はこの偈を和歌形式に翻案したものだと解する説が主流であり、日本人が生活の中で自然と仏教的無常観に親しんできた証左といえよう。

雪山童子の物語

「いろは歌」の仏教的背景を語るうえで外せないのが、「雪山童子」の説話である。これは釈迦の前世物語、いわゆる“ジャータカ(本生譚)”のひとつであり、古くから『今昔物語集』などを通じて日本人に親しまれてきた。

物語はこうである。釈迦の前世である雪山童子が、ヒマラヤの雪山で修行していたところ、帝釈天が羅刹の姿に変化して現れ、次の偈を唱えながら問いかける。

「諸行無常 是生滅法」

童子はこの問いの続きを答えようとするが、それを聞きたがる羅刹に対し、童子は命を捨てる覚悟で次の句を唱える。

「生滅滅已 寂滅為楽」

羅刹はその覚悟と真理の深さに感動し、童子を救ったとされる。ここで注目すべきは、「生滅を超えた寂滅の境地」を、仏教では「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼び、これこそが仏教的最高の安楽とされる点である。

いろは歌に込められた日本仏教の精神

「いろは歌」は、ただの仮名の羅列ではなく、日本人が日常的に接することで自然と仏教の教えに触れる装置であったと考えられる。子どもたちが文字を覚えると同時に、「色は匂へど散りぬるを」という無常観や、「夢」「酔い」といった迷いの象徴に触れる構造となっている。

そこには、日常生活の中に自然と仏法の理を取り入れてきた、古き良き日本の精神文化が息づいている。

おわりに

色、我、常、有為、夢──いずれも仏教思想の核心に触れる重要なキーワードである。「いろは歌」は、それらを見事に詠み込みつつ、仮名を習得する初歩の段階でさえ、深遠な教えに触れるよう設計された偉大な和歌といえるだろう。

現代に生きる私たちも、この歌の背後にある精神と向き合い、無常と寂滅をめぐる思索を通して、よりよく生きるための知恵を学んでいけるのではないだろうか。

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