ダンテ『神曲』解説 (17) 煉獄篇:嫉妬・羨望・怒りの罪を浄める魂の旅

ダンテ【神曲】まとめ(17)〜「煉獄篇」第13歌・第14歌・第15歌

嫉妬と羨望の環道へ

煉獄の山を登るダンテとヴェルギリウスは、第一の圏「傲慢」を通り抜け、第二の圏へと至る。ここで罰せられているのは「嫉妬」と「羨望」の罪を持つ魂たち。七つの大罪は、順に浄化されるべき心の汚れとしてダンテの旅路を導いていく。

第13歌──瞼を縫われた魂

第二の環道では、魂たちは目を閉ざされていた。まぶたは針と糸で縫われ、まばゆい光を受けることができない。神の恩寵も太陽の光も、妬む者の目には与えられぬというわけだ。

彼らは神の愛に嫉妬し、他人の幸運に心を歪ませた。だからこそ目を閉ざされ、内面と向き合うしかない。崖にも道にも、もはや彫刻の装飾はなく、ただ静けさと哀れな呻きが漂う。

やがて光る魂の群れがダンテの前に現れる。「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。その言葉を残し、天上へと飛び去っていった。

第14歌──羨望という毒

妬みとは、人間が最も自然に抱いてしまう負の感情だ。

他人の不幸に安堵する、という心の動きは誰にでもある。「私はまだマシだ」と感じることで、自分を慰めているにすぎない。その逆に、他人が幸せそうにしていれば、腹が立つという感情──これが羨望である。

現代のSNSやインスタは「私は幸福だ」と他人に見せる装置となっている。その光景に非リア充は苛立ち、自分が惨めだと感じてしまう。こうして羨望の毒が心を蝕んでいく。

澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』にもあるように、幸福とは「不幸の欠如」に過ぎない。真の快楽とは異なる、比較による感情の産物なのだ。

やがて煉獄の空に雷鳴のような戒めが響き渡った。羨望よ、退け──。

第15歌──暗闇に包まれて

一陣の光と共に天使が現れ、ダンテの額から「P」の文字をまた一つ消し去った。これで残るは五つ。

気づくとダンテは第三の環道へ来ていた。夢遊病のように歩きながら、彼は怒りに満ちた幻想を見た。狂気と殺意、血の映像が頭を支配していた。

ヴェルギリウスの言葉で正気を取り戻したその時、辺りに黒い煙が立ち込め、彼らは暗闇に包まれたのだった。ここから先、怒りの罪の浄化が始まる。

まとめ──「セブン」とダンテ

七つの大罪といえば、デヴィッド・フィンチャー監督『セブン』を思い出す人もいるだろう。

あの映画では、猟奇殺人犯が七つの罪に倣って人を殺していく。そして「怒り」の罪によりブラッド・ピットが犯人を撃ち殺す結末へ至る。その中で「神曲」も引用され、ダンテは「大ボケのカマ詩人」と呼ばれるシーンがある。

だが『神曲』はあくまで、罪を暴く物語ではない。煉獄篇は、罪と向き合い、それを超えていくための浄化の道である。

◯澁澤龍彦『快楽主義の哲学』の紹介記事はこちら:
澁澤龍彦【快楽主義の哲学】と奇妙な三角形

◯映画『セブン』はこちら:
セブン (字幕版)

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