予兆と心の可視化──空・宝石・黙示録に現れる神秘的サイン

哲学的偏見

【サイン】予兆について──空から届く露光、視聴覚の原型、そして宝石の真意

ユピテル──夜明けの空に並ぶ予兆

2020年のある朝。仙台の空、東の方角に目を向けると、木星(ユピテル)を先頭に、火星(マルス)、土星(サトゥルヌス)の3つの惑星が一直線に並ぶ姿が見えた。天文ファンでなくとも、この並びにはただならぬ感触がある。

木星の存在は明白だ。その輝きは圧倒的で、手帳がなくとも合に近いと想像できる。一方で火星と土星は色も大きさもよく似ており、目視では区別が難しい。おそらく、最後尾にあるのが土星だろう。あくまで直感だが。

ちなみに、筆者が水星を目視したのは一度きり。そのときも、木星を水星と勘違いしたものだ。水星は天体観測における”幻の一手”である。

【天体観測】目視できない唯一の7大惑星「水星」

【天体観測】「水星」の目視確認に成功!(初)

南の空では、筆者の星座――蠍座のアンタレスが堂々と光っていた。上弦過ぎの月はすでに沈んでいたが、夜はまだ霊的な気配を残していた。窓を開け、煙草に火を点けると、流れる煙が東か南からの風を教えてくれる。雀たちは無邪気にさえずり、世界は目覚めに向かう。

サイン──とぼける者に届かぬ徴

人は、事実から目をそむけたがる。だからどれほど明確なサイン(予兆、徴、しるし)が現れても、気づかぬふりをする。もとより、世界が聖なるかたちで構成されていること、人間自身が聖なる容器であることを知らぬまま生きているのだ。

そのような人間にとって、変化は不可能だ。なぜなら、最初から拒絶しているのだから。

『ヨハネの黙示録』では、「死の御使い」が罪人の額に”死”の印を刻む。この刻印は「獣の印」にも通じており、神に見捨てられた存在として名指しされる。

原型──視る力、聴く力の起源

「目を備えた者が見えぬことがあるだろうか。耳を備えた者が聞こえぬことがあるだろうか」。これは『詩篇』の言葉だ。

だがそもそも、“見る”とは、“聞く”とは、何を意味するのか? 視覚・聴覚とはどのような原型を持って生まれたのか?

宝石や貴金属の話に転じよう。『逃げるアタランテ』にも描かれているが、真珠、琥珀、珊瑚、瑪瑙――これらはただの鉱物や有機物ではない。黄金、銀、銅、鉄といった金属もまた、単なる物質ではなく「名」を持った存在だ。

名があるものは、原型がある。したがって、『ヨハネ黙示録』の中で新エルサレムが宝石で築かれているという記述も、幻想ではなく真実性を帯びてくる。

監視──心の深奥を暴く目

人間は、見られている。聞かれている。だがそれは人間による、非常に限定された「観察」に過ぎない。

ドローン、人工衛星、軍事監視機器があらゆる方向から人類を監視するようになった。人は「見られている」と感じるだろうが、それは模造にすぎない。惑わしの徴なのだ。

本当に恐れるべき視線は、人の目ではない。人の耳でもない。心の深奥を余すところなく見通す存在がいる。

もし、人がその存在の目を真正面から見据え、その声に耳を傾けたとしたら――筆者自身、とっくにこの国によって死刑に処されていたかもしれない。

何者もこの目から逃れることはできず、偽装することも許されない。だからこそ、他人の視線よりも、その存在の目と耳をこそ、私たちは気にかけるべきなのだ。

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