ヘルメス・トリスメギストスと学ぶ|バイブル解釈(1)〜言葉としての神、書物としての聖書
アートとして読むバイブル
バイブル(いわゆる「聖書」)という書物は、単なる宗教文書ではない。数千年の時を経て書き継がれ、世界中で読まれ続けてきたテキストは、それ自体が巨大な芸術作品とも言える。
宗教的先入観を離れて眺めれば、バイブルは文学的であり、詩的であり、象徴と神話に満ちた「言葉の宇宙」である。神話や物語に惹かれる者、あるいはアートにインスピレーションを求める者にとって、これ以上に濃密な読書体験はそうない。
ここでは、「バイブル」という呼称を用いることで、宗教的な勧誘や教義から距離を置き、書物としての魅力を探っていきたい。
翻訳によって失われるもの
バイブルを味わう上で大きな障害となるのが「翻訳」だ。特に日本語訳は、敬語や儀礼的な言い回しが過剰で、語られる内容以上に「崇高さ」を演出しようとする傾向がある。
その結果として、神との関係がまるで「上司と部下」のような上下関係にすり替えられ、テキストの本来持っていたダイナミズムや荒々しさが見失われてしまう。皮肉にも「信仰」を語るための言葉が、形式や遠慮によって空洞化してしまうのだ。
ヘルメス的な視点からすれば、**神とは外にいる上位者ではなく、言葉そのもの、ロゴスとして内在するものである**。であるならば、バイブルは“神に媚びるための書”ではなく、“言葉を媒介として自己と宇宙を見つめるための鏡”であるはずだ。
出エジプト記:幻想と解放の物語
旧約聖書の『出エジプト記(Exodus)』は、モーゼ五書の第二部。最初の『創世記(Genesis)』の次に位置し、バイブル全体でも極めて象徴的な物語構造を持つ章だ。
奴隷とされたヘブライ人をエジプトから脱出させるという壮大なストーリーには、炎・海・血・動物・言葉・死といった神話的モチーフがあふれており、読む者の想像力を掻き立てる。
聖書の神(Lord)――すなわち「ヤハウェ(YHWH)」は、ギリシャ神話のように姿を表すことはなく、言葉を通じてのみ顕現する。これはヘルメス文書における「見えざる創造者」「不可知の存在」と重なる。
言葉は姿なき神の本質であり、ロゴス(logos)=言葉=創造原理として、バイブルの全体を貫いている。
燃える茂みと「I AM」
神が初めてモーゼに現れたのは、燃える柴の中からだった。燃えているのに燃え尽きない灌木の幻影――これは神の象徴としての「永遠性」「変容しつつ変わらぬもの」を示している。
その場面で語られたのが、バイブル史上もっとも有名な言葉のひとつ:
“I AM WHO I AM”
この謎めいた表現は、存在の根源、つまり「存在そのもの」であることを語っている。神の名が「名指しえない」ものであるという点で、これは**ヘルメス的不可知論(apophasis)**そのものでもある。
モーゼが「彼らがあなたの名を尋ねたら、何と答えればよいか」と問うたとき、神は「私は私である」と答えた。これはアイデンティティの肯定ではなく、定義の拒否である。
次回はこの「I AM」という言葉を起点に、モーゼに授けられた“2つのしるし”について、象徴とアルケミー(錬金術)の観点から掘り下げてみたい。
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