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キリスト教的瞑想のための散文〜”ソヴェンゴヴェン・モロシッパ・ザイーベ”

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the beginning

電気やインターネットが止まればもうこんな風には書けないし、今でもそうだが誰にも読まれることはない。それでも誰も書かないことを私が書かなければならない。でないと世界には何の意味もなくなってしまうから。

それにしてもいい人生だった;とても楽しかった!頑張って長生きできて良かった!くじけて死んでいたり守護なく滅んでいたなら私の人生は”尻切れとんぼ”だったろう。

悩み・苦しみ・悲しみ・迷い・不安・恐怖、、、どれもこの世ならではの魂の感覚する要素。ゾクゾクする冒険も生きている間だけ、この世の嵐の夜を航海している間だけだ。

the brumes

眠りから覚めようとする時意識は再び夢の中に落ち込もうとし、言わば水面に浮上しながら沈んだりする魚のように目覚めと睡眠の中間を行き来する。寝坊助の学生かやや遊び疲れた若い肉体労働者のように、目覚ましが鳴っても何度もスリープ・ボタンを押す。

起きたくない、もっと寝ていたい、眠りたい、夢の続きが見たい。その気持ちはよく分かる。たとえば連休後の初出勤の朝、夏休み明けの新学期の朝の気分だ。

同じように街の景色に霧がかかっている、ボードレールの詩のようだと黄色い霧。そして霧はかなり濃く深く、大気の色がわからないほど空間は真っ黄色になっている(『七人の老爺』)。

この霧が「夢」だとする。眠りからだんだんと醒めるように「夢」が吹き払われ、ありのままの「現実」が現れてくる。睡眠と覚醒の中間状態のように「現実」は見え隠れし、「夢」はゆらゆらと揺らめく。

the frogs

ヨハネ黙示録16に次のように書かれている。「龍(単数)の口から、獣(単数)の口から、偽預言者(単数)の口から、蛙に似た3つの汚れた霊がでてくるのを見た。なぜならそれらは兆しを為す悪霊たちで、全地上の王たちの元へと出て行って彼らを招集する;あの全能なる神の偉大な日に行われる戦いに備えて」

キリストが言葉であり霊すなわちスピリットであることはすでに他で述べた。であるならば悪霊または汚れた霊らも言葉である。霊は言葉であって口から出てくる。また主は口から出てくるのものが実であると教えている。つまり人の口から良い実(言葉)また悪い実(言葉)が出ると。

そして実は心の倉から取り出されると。良い実は良い心から、悪い実は悪い心から、口を通って出る、ということになる。よってヨハネ黙示録の16は言葉のことだ。龍・獣・偽預言者らの話す言葉が霊としての形を取り可視的になるに当たって蛙に似ていた、ということになる。

確かに連中の顔は言われてみれば蛙によく似ている。陰気臭く真面目ぶるかニヤつく以外に表情のない顔。何か脳髄に強烈な薬品を注入しているのだろうか;口には出せないような中毒性の何かを?

the profanation

汚れた霊は偽りの、嘘の、欺きの言葉である。キリストの霊が真実と、救いと、命の言葉であることへの反対である。聖書に書いてある教えとは、このようなことなのである。つまりキリストとは霊であり言葉であるから、固形物体で造られた像とか絵などではない。

洗礼や聖体拝領とか外国の教会の儀式や宗派は知らぬが、日本の仏教が儀式化しもはや哲学を失ったのと同じように、それらも形態化してしまったのだろう。儀式・形式には何の意味もない。洗礼も聖体拝受も本当の意味においては、スピリットを媒体とし物質はその補助的役割を担うだけなのだから。

【太陽】象形文字としての肉眼視覚可能な天空の光る大きな物体

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