三島由紀夫『愛の渇き』徹底レビュー|未亡人と使用人の狂気と虚無の愛

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三島由紀夫『愛の渇き』最新レビュー|老人と再婚した未亡人と使用人の破滅的愛

最近、三島由紀夫作品を読み漁っている。日本語という言語の精髄を、原文のまま味わえるのは日本人の特権だ。翻訳された西洋文学も素晴らしいが、現代語の軽さが支配する世の中において、三島の筆致は心を洗うような感覚を与えてくれる。今回は図書館で借りた『愛の渇き』のレビューをお届けしたい。

物語の概要とあらすじ

『愛の渇き』は長編とされながらも比較的コンパクトな作品で、田舎に移り住んだ元未亡人・悦子を中心に描かれる。彼女は老いた地主と再婚し、古風な大家族の中で生活している。使用人やその家族と共に暮らす中、悦子は若い使用人・三郎に激しく惹かれていく。

年齢差のある恋。現代に置き換えれば、30代半ばの男性が20歳の若い女性に入れ込むようなものだ。しかも同じ屋根の下という閉鎖空間で、それはどんどん異常性を帯びていく。

狂気へと傾いていく愛

悦子は三郎の愛を求めながらも、自分でも何を望んでいるのかわからない。三郎は別の使用人・美代を妊娠させ、それを知った悦子は二人に結婚を命じる。しかしその直後、美代を家から追い出してしまう。周囲の家族は悦子の狂気じみた行動を黙認しており、老いた夫すらも止めようとはしない。

そしてある晩、悦子は三郎を葡萄畑へ呼び出す。午前1時、暗闇の中での密会。悦子はそこでようやく美代を追い出したことを告白しようとするが、三郎はすでに知っていた。彼女の告白は空振りに終わる。

「愛しているの?」という空虚な問い

悦子は問い詰める。「美代を愛しているの? 愛していないの?」かつて妊娠を知ったときと同じ問いだ。三郎にとってその質問は意味を持たない。「愛していない」と彼は言う。面接の難問に適当に答えるように。

「じゃあ、誰を愛していたの?」と更に問う悦子。これは明らかに「あなたです」と言わせたい誘導尋問だ。三郎はそれに気づき、機械のようにそう答える。悦子はその言葉に白け、背を向けて立ち去ろうとする。

しかし次の瞬間、三郎は悦子に欲情し、彼女を押し倒そうとする。これこそ悦子が求めていた展開ではないのか? だが彼女は抵抗し、叫び声を上げる。

葡萄畑の殺意

叫び声を聞いて駆けつけたのは、鍬を持った老夫だった。しかし彼は、もみ合う二人を前にただ呆然と立ち尽くす。悦子はその姿に激昂し、鍬を奪って三郎の頭に振り下ろしてしまう。

彼女に殺意があったわけではない。鍬を持ち出したのも偶然だった。それでも三郎は悦子の手で殺された。人間の行動は、ときに予測を超えた結末を生む。その不可解さがこの場面には濃密に漂っている。

悦子と老夫は三郎の遺体を畑に埋める。そして悦子は一度眠りに落ちるが、すぐに目覚め、虚無だけが広がる夜の暗闇に耳をすます。鶏の鳴き声が遠くに響いていた。

虚無の果てに

ラストはどこか芥川龍之介の『羅生門』を思わせるが、さらに不気味で、深い虚無感に満ちている。三島が戦後の日本に感じていた、言葉にしがたい不安定な空気。それがこの作品にも濃密に漂っている。

特に印象的だったのは、悦子が三郎に惹かれ始めたときの一節だ。「ともかく、悦子には“生甲斐”ができた。」

その“生甲斐”とは、未来という不確かで不気味なものに魂をつなぐ、ヌルヌルした細い糸のようなもの。悦子はその糸に縋って生きていたが、最終的に自らその糸を断ち切ってしまう。

自らの手で“生甲斐”を破壊したその瞬間。「そして、何事もない。」——この無の余韻が、読後も長く心に残る。

◯三島由紀夫作品レビューまとめ→【三島由紀夫】作品レビューまとめ〜当サイトによるオリジナル版〜

コメント

  1. あまこ より:

    爺いと再婚、というか舅と関係を持つんですよね。
    小説は未読ですが、昨夜映画を見ました。
    怖すぎて二度と見たくないけど美しい映画だとは思います。
    悦子は三郎の肉体にもちろん惹かれていたでしょうが、彼女の求めていたのは愛だったんでしょう。
    そこから本当の人生が始まるような…。
    わたしからすると、舅も三郎も前夫も異様です。
    求めても得られない場所で愛を求めてしまったのが悦子の悲劇かもしれません。

    • taka より:

      コメントありがとうございます。1967年公開の浅丘ルリ子・ヒロイン役の映画ですね。テレビか何かでやってるんでしょうか:p

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