錬金術書
これはミヒャエル・マイヤー(1568ー1622)というドイツ生まれの錬金術師が1617年(セカンド・エディションは1618年)に出した「逃げるアタランテ」という本に添付された楽曲群。この錬金術本には序詞に続き50枚の銅版画・50編の詩・50編の講釈が列挙されている。フーガはそれぞれの講義に対応した音楽という体裁。
本文はここでは取り上げないが日本語訳を無料で読めるサイトがあり、外国語のだと原文ラテン語も掲載しているところもある。50枚の版画はどれもオカルティックで不思議なものばかり、ただ見るだけでも楽しめる。「逃げるアタランテ」は澁澤達彦の本などにも言及されているし、ちょっとでも錬金術に興味を持ったことがある方ならまず知らない人はいない書物である。
しかしこの本に音楽が付いていたということ、逃げる”Fugiens"は音楽用語でフーガの「遁走曲」という形式を表しもするということまでは、意外と見落とされているかもしれない。実は筆者もそうだった。つまり本の題名は「逃げるアタランテ」もしくは「アタランテ遁走曲」とも読めるのだ。
フーガ
”フーガ”と言われてもクラシック西洋音楽に詳しい人でなければピンとこない。せいぜい思い浮かぶのはバッハの「トッカータとフーガ二短調」くらい(笑)。子供の頃ゲームで死んだ時、うんこを漏らした時などに友達と”チラリーン・チラリラリンラー、チラリーン・チーラーリーラー”と歌って遊んだものだ。
フーガってどんな音楽なの?と疑問に思ったら実際に聴いて見るとよいだろう。バッハのみならずベートーベン、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスなどの巨匠の音楽家がフーガの曲を遺している。
だが「アタランテ遁走曲」はそんなクラシック音楽とは全然違った新鮮な感じを受ける。現代の私たちが聴いても非常に心地よく、どことなくクリスマス・ソングにも例えられる。21世紀ポップスであればエニグマ、ブルーストーン、デレリアムなどのダンス系癒しミュージックがお好きな方もきっと気にいると思う。
「アタランテ遁走曲」は音質、ラインナップともに最高と筆者が評価するアップルのApple Musicで検索すると出てきた。さっそくアイチューンズ・ライブラリに追加し、早くもお気に入りの音楽となっている。ただ心地よいのみならず、錬金術の版画と詩、深奥難解な講義と合わせて汲めども尽きぬ夢想の糧を提供してくれる。
*Apple Musicで聴く▶Maier: Atalanta Fugiens
ギリシャ神話
錬金術はギリシャ、エジプト各神話から象徴を汲み取り、秘められた隠された真実を探求する学問である。卑金属から黄金を精製することは化学的に無理なのだから、そこに金儲けの手段を探すというよりは哲学者の賢者の石つまり知恵(Sophia)の研究と見る方がより理性的ではないだろうか。さもなくばこの学問は黒魔術のような単なるオカルトでしかなくなってしまう。
アタランテーはギリシャ神話上の足の速い美女で、求婚者たちが彼女と競争して勝つことができれば愛に応え、負ければ殺すことにしていた。多くの挑戦者たちが命を落とす中、ただ1人ヒッポメネースは女神アフロディーテーの加護を得、3個の黄金の林檎を贈られた。
アタランテーとの競争のさいにヒッポネメースは黄金の林檎を彼女の足元に投げ、アタランテーがそれを拾おうと気を取られている間にゴールに着いて勝利した。彼女はグイド・レーニの絵画でもわかるように薄衣1枚しか纏っておらず、黄金の林檎をしまうポケットなどもなかったのであるから。(アイキャッチ画像はグイド・レニの「アタランテ」)
追記
ちなみに作者ミヒャエル・マイヤーは16世紀神聖ローマ皇帝・ルドルフ2世に召し抱えられたことでも知られる。この皇帝の芸術や隠秘学への強い愛好は、澁澤龍彦の本などでもよく紹介され有名である。
最後に筆者が今回「逃げるアタランテ」を思い出し、50曲のフーガについて記事を書くことになったきっかけはA・P・マンディアルグ氏の最後の長編小説「すべては消えゆく」だったことを述べておく。
◯マンディアルグ「すべては消えゆく」の記事はこちらです→【マンディアルグ】長編小説「すべては消えゆく」〜20世紀末賢者の預言〜