物質
いま地元の図書館から借りてきたルクレーティウスの『物の本質について』を読んでいるのだが、著者は精神および魂の消滅を主張しており、アホらしくなって途中で本を閉じたのであるが、いやはたと思い直し、目下読み進め中である。
本書については後にレビューを挙げるであろう;しかし仏教の開祖である尊師は主義主張や論争を徹底して排除する、こだわりのない境地を説いた。であるからして筆者もまた、この紀元前のローマの思想家ルクレーティウスの主張を”くだらない”と斥けるわけにもいかず、ここに経過報告として記事を書かねばならぬと考えたのである。
『物の本質について』と書いて”物質について”と邦訳される。ルクレーティウスは原子という概念を授かり、あらゆる神秘と秘密を解明し説明し得る鍵である宝を発見した気でいる。まあ詳しい感想は後に譲るとし、いま私が言えることだけをここで述べるに止める。
問い
一、もし誰かが人間の魂は動物や虫や別の世代の人に生まれ変わる(いわゆる輪廻である)か、と問うならば、私は「わかりません」と答える。
二、もし「地獄はあるか」と問うならば、私は「ある」と答える。
三、魂は肉体と共に死滅するか、と問うならば、私は「それについては議論しない」と答える。
四、精神は魂と同じように肉体と共に消滅するか、私は「何も言うことはない」と答える。
地獄
これら四つの形而上学的・神学的な問いについて私が答えることができるのは二番目、「地獄はあるか」だけである。地獄はある。地獄は人類を待っている。それだけだ。
地獄は漢字二文字で形成されているが、立派な日本語である。この単語を本質的意味に訳すると「そこにおいて永遠に魂が苦しめられる最も悲惨な世界」と言ってもまだ足りない。
なので地獄に近いこの世の死の状況が永遠に続くという意味に限り、想起していただきたいと思う。例えば体の放射線被曝、火傷、酸による溶解、様々な残酷な器具を用いた拷問やら、生き埋め、毒ガスによる処刑、プラス精神的苦痛を与える陵辱など。
こういう現実的に可能な肉体的・精神的苦しみを想像していただこう;通常こういう苦しみが長引けば肉体は死ぬので、ルクレーティウスが体と一緒に消えると主張する魂は体から離れる。だが地獄は肉体の死滅による苦痛の終焉を許さず、永遠に受刑者を苦しめる事になる。
罪
ここではっきりしてきたこと、それは受刑者という存在である。受刑者は処罰されることによって生ずる。処罰は法によって、法は正義によって生ずる。
筆者がルクレーティウスに反論できるのはこのことだけによってである。すなわち正義というものがあり、正義は肉体の消滅と共に滅びることはなく、世代の変還によって移ろうことなく、永遠の真実として立つ。
ゆえに地獄は存在し、よって魂は不死であり、精神は魂に連れ添う随伴者であるから必然的に精神も不死、ということになろう。