【原宿駅旧駅舎】さようなら、思い出の木造駅舎に──記憶と名残り、そして贈る言葉
旧駅舎との別れ
ある日、コロナ禍関連の動画を観ている中で、JR原宿駅が新駅に移行し、長年親しまれてきた旧駅舎が解体されるというニュースに出会った。映像には、夜の帳が下りる中、駅員たちが出入口に整列し、「96年間、どうもありがとうございました」と頭を下げ、静かにシャッターを閉じていく姿が映っていた。
まるで駅舎そのものが人格を持った存在であるかのように、駅員たちは敬意と感謝を込めて見送っていた。その姿に胸が熱くなった。もし私もその場に居たなら、思わず「ありがとう」と声をかけたに違いない。
あの中には、ハサミで切符を切っていた時代の駅員さんもいたのだろうか。若者もベテランも、皆が原宿駅という空間に対する誇りと愛着をその顔に浮かべていた。
ホコ天の頃
私が原宿駅を頻繁に利用していたのは、1990年代初頭。日曜日になると、ホコ天(歩行者天国)でパンク・バンドとして演奏するためだった。
おしゃれなカフェやショッピングには目もくれず、仲間と楽器を担いで駅を出て、そのまま演奏場所へと向かう日々。あの頃の原宿は、音楽と熱気と若者のエネルギーに満ちていた。
当時の駅舎の詳細な記憶は曖昧だ。まだ自動改札ではなかったような気もするが、夢中で活動していた私は、建物の外観よりも音と群衆の熱に圧倒されていた。
築年──時代を見守った建物
旧駅舎が建てられたのは1925年。三島由紀夫が生まれる少し前のことだ。そして私が生まれたのは、奇しくも三島の切腹の一週間後である。原宿駅は、その間ずっと、何も語らず私たちの人生を見守ってきた。
木造建築で96年も都心の一等地に立ち続けたという事実だけでも奇跡だ。レトロで可愛らしく、田舎の駅舎のようでもあり、どこかモダンな趣もあった。私が木造と意識しなかったのは、ホームや通路が鉄骨とコンクリートで作られていたからかもしれない。混構造だったのだろう。
感謝と贈る言葉
そして2020年、新たな駅舎がオリンピックに向けて稼働を開始した。しかし、新駅はあまりに味気ない。実用性重視の四角い箱だ。
旧駅舎が私たちに与えてくれたもの──それは、便利さではなく「記憶」である。青春の片隅に刻まれた景色、人々の優しいまなざし、ハートを持っていた時代のぬくもり。その全てを、あの木造の小さな建物がそっと抱きしめていた。
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