芥川龍之介「切支丹物」を読む|信仰の違いと日本人の本音

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【芥川龍之介】切支丹物・レビュー|日本の信仰と西洋の信仰が出会うとき

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岩波文庫『奉教人の死・煙草と悪魔』を手に取り、芥川龍之介の“切支丹物”と呼ばれる短編13作を読んだ。
個人的には芥川作品の中でも、王朝物のような平安時代の雅な短編に惹かれてきたが、今回はあえてキリスト教が日本に伝来した頃を題材にした作品群へと踏み込んでみた。日本の古き文化を描いてきた芥川が、異教であるキリスト教をどう描いたのか、強い興味を抱かずにはいられなかった。

作品の背景や作風については、巻末の解説から印象的な一節を引用したい。

「(略)室町時代の俗語と、キリスト教文献独特の用語への、文体的な、また言語学的な関心があった。(略)この半ば外国人風の『えそぽ物語』的な日本語は、限りない作家的挑戦への意欲をそそったと思われる」

文体の異国性と不可解さ

たとえば、平安貴族に「デウス」「キリシト」などの話をしても通じるはずがない。全世界に向けて遣わされたという福音も、日本人にとっては善悪以前に「何を言っているのか分からない」言葉でしかない。

日本には聖徳太子の時代にすでに『妙法蓮華経』が伝来していた。中国にも、インドにも、そしてこの国にも、奥深い仏教文献が蓄積されている。そうした叡智を学ぶだけでも一生かかるのに、なぜ南蛮由来の“デウス”を信仰せねばならぬのか——そんな問いを感じる日本人の感覚が、本書の随所から立ち上がってくる。

芥川は、そんな異文化との衝突をあえて“江戸下町調”で描いているという。その滑稽さ、時に悲哀を孕む調子には、彼自身の「悪魔的な笑い声」が聞こえてくるかのようだ。

信仰と違和感

私自身もまた、かつてバイブルを始め、プラトン、アリストテレス、ヘルメス文書、エジプトの死者の書、ナグ・ハマディ文書、死海文書、アポクリファ——西洋宗教思想を形づくる文献をむさぼり読んだ。だが、ある時から妙な違和感を覚えるようになった。

西洋の根源的言語であるラテン語を学んだのも、その文化の奥へ入りたいという動機からだった。しかし、どんなに「テ・デウム」や「スタバト・マーテル」を口ずさんでも、自分はやはり日本人であり、言語の深層を変えることはできない。

西洋人がラテン語を学ぶように、私は古文・漢文を学ばねばならぬ。彼らがキリスト教を遡るように、私は仏教の源流を辿るべきなのだ。そう思った瞬間、キリスト教の“違和感”が輪郭を帯びた。

天使の姿は誰の幻想か

金髪の赤ん坊に羽根を生やした“天使”や、ゆったりした衣をまとった聖人たちのイコンは、西洋の芸術だ。それを日本人が「本当にこういう存在がいる」と信じるのは、すでに想像力の誤謬の中にある。だからこそ、聖母マリアが着物を纏い、エルサレムに桜が咲くといった“日本化されたキリスト教”が生まれるのだろう。

宗教と芸術の根

宗教とは何か。それを定義することは難しい。しかし、少なくとも仏教や武士道を信じてきた古の日本人にとって、キリスト教はどこか“魔界のパフォーマンス”のように映ったに違いない。

私たちは原爆投下という現実に直面して目を覚まされた民族かもしれないが、それでも言葉の源は万葉集に、祈りの感覚は仏教にある。そして美意識もまた、和歌や仏像や茶道といった日本独自のものに根ざしている。

そのような背景を持つ者にとって、キリスト教はあくまで“外来の信仰”だ。どれだけ学んでも、祈っても、信じても、死に際して口をつくのは「アーメン」ではなく「南無妙法蓮華経」だろう。それこそが、幼い頃から耳元で囁かれてきた“剥き出しの言葉”なのだから。

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