概要
菅原道真は讒言によって太宰府に左官され、そこで苦労をし、幼い子供を葬り、ついに終焉を迎えた。以後朝廷では怪異が続き、様々な道真の供養を行うも無駄で、醍醐天皇は皇居の落雷事件によって崩御する。
天神と呼ばれ学問の神様と崇められている我が国の神、菅原道真がいかにして苦境を耐え凌げたか。王丸勇氏の本でいうと「老荘思想」だった。この言葉に興味を持ち、老子、荘子に関心を寄せ、さらにインドの仏典が中国で三蔵に翻訳される時に、道という言葉を用いたことを心に留めた。
日本の仏教を知らんがために、「老子」そして「荘子」を必読すべきであると考え、『荘子』を取り揃えた。
道
荘子の説とは何か。二乗で言う所の辟支仏であり、仙人的生活である。仙人および道教については研究途中である。『荘子』には真理が書かれており道教も奥深い。が、弘法大使が処女作で書いたように、仏法こそが最高である。
大使によれば仏法の中でも密教こそが最高の最高なのであるが、それは置いといて、辟支仏すなわち自分だけ優れた生活をし世から遠ざかる荘子の教えについて焦点を絞っていきたい。
その理由は荘子の教えがいかに優れていて最高でも、無上の教えではないのは、仏教のように生まれる前と死んだ後の三世に渡りあらゆる境涯について網羅しておらず、救われない生き物たちへの哀れみがないからである。
無為
ズバリ言ってしまうと無為こそが道である。作為はすべて道に付け加えられたり削ったりする時に生じ、その時道から外れるのである。
人の心や行いもそうで、ただ自然のみがこれをよく行う。簡単な例えで説明しよう。
音楽は人工的な音であるが、風や雨の音、鳥たちの鳴き声など、雲の流れる有様は作られたものだろうか。このように何もしなくても最初からあるもの、それが道である。
日は昇り、何もしなくても必ず沈む。四季は必ず変じ、一周してまた開始する。同じように人も天地の簡易な働きに身を任せると、何もしなくても済むようになる。
もしこれに心においても、体においても、何かをしようとするならば、道から外れるのである。これが仏教と共通しているから、悟りが「道」と翻訳されたのであろう。
周易
『荘子』『老子』とともに三玄と称される稀代の奇書『周易』には、同じ真理が説かれている。―と--の二つの単純な記号によって森羅万象を説明しようとする易経は、荘子に通ずるものがある。
道は最初からあるもの。陰陽つまり昼と夜、春と秋・冬と夏、男と女、父と母、男子と女子。生と死、子供と老人、妻と夫。祖母と祖父。孫と曽孫etc。すべてはこの繰り返しである。
どんな時代を探したって、あるのはこれである。歴史、文化は人が作為して道に付け加えたもので、今までもすべて滅びてきたが、陰陽の2爻は普遍である。
国道のど真ん中に突っ立ってみよ。信号機が百年前にあったろうか?車が走っていただろうか?横断歩道があっただろうか?スマホがあっただろうか?これらは道に付け加えたり削ったりして出来た光景であり、百年前には無かったものである。
しかし道は太古から続き、これからも続く。
幻術
道に付け加えたりして生じたものは、幻術によって現れているに過ぎない。あなたたち人もそうである。しかし、陰陽はずっと続く。
行為もそうだ。道に付け加える行為は余計な行為であり、余計な文句であり、道から外れているのだ。道から外れれば、滅ぶ。道と共にあれば、養生する。
かなり適当なレビューを最後まで拝聴いただき、有難う。