誓願──仏教は生きるためのツールだ
禅宗には四弘誓願、真言宗には五大願がある。形こそ違えど、いずれも仏教徒の誓いであることに変わりはない。三帰依、十重禁戒、十善戒などもまた然り。
その根幹にあるのは、「成すべきことは断固として実行し、成すべきでないことは断固として行わない」という倫理の決意である。これには、命を賭ける価値すらある。
人の行いには三つの働きがある──身・口・意。これは真言密教で言うところの「三密」に対応し、懺悔文にも登場する言葉である。すなわち、身体と言葉と心、この三つに気をつけよ、ということだ。
仏教×パンクスピリット
筆者は、日本仏教には1970年代のPUNKムーブメントに通じる力があると考えている。仏教は、人間を夢中にさせるものだ。『醍醐』という語が象徴するように、極上の旨味を持つ思想である。
にもかかわらず、現代の地方ではどうか? 葬式仏教と揶揄され、香の匂いに満ち、年寄り臭く、儀式は機械的に繰り返され、若者の関心は薄い。
高齢化が進む中、坊主と葬儀屋は引く手あまた。だが、その裏ではお堂に鍵をかけ、大切な財産を囲い込み、信者の参拝も制限するような姿勢が散見される。
──そうではない。仏教とは、生きるためのツールであり、情熱と衝動の表現なのだ!
力──真言密教に宿るエネルギー
『図印大鑑』によれば、「力」は左手の人差し指に対応するとされる。密教の印相を学ぶと、十本の指それぞれに象徴が割り当てられていることが分かり、印を結ぶのが楽しくなる。
仏教に「力」があることは、大乗経典──たとえば『法華経』を読めばすぐに実感できる。そして、空海の初期著作『三教指帰』(しき)──その原型である国宝『聾瞽指帰』の真筆が、いまも金剛峯寺に保存されている。
この書こそ、空海によるパンクロック宣言である。例えるならば、セックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・UK」の叫びであり、ラモーンズ「ブリッツクリーグ・バップ」なのである。
空海の文字は、龍・虎・蛇・蟲──そういった霊獣にも喩えられるが、筆者にとっては「叡智の火炎」そのものだ。文字から仏教の炎が燃えている。
仏教と気合──密教こそが生きている
現代日本で、生き生きと読経・真言・陀羅尼を唱える僧侶を見たことがあるだろうか? それができているのは、真言密教系──醍醐寺の修験道や山伏たちだけである。
そこには、気合いがある。声に、動作に、祈りに、まごうことなき「生命」が通っている。他宗派の念仏が甘ったるく、J-POPのようなハーモニーに堕してしまうなか、密教だけが衝動を保ち続けている。
気合いの感じられないものは、もはや仏教とは呼べない。仏教の本質は、生と死の狭間で、真理を叫ぶ声にこそ宿るのだ。
(以下、第五回へ続く)
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