信仰の行方
西暦3〜4世紀、キリスト教が公認され、迫害が消えたとき、信徒たちは戸惑った。かつて神の国を目指してこの世をさすらい、死をもって信仰を証明していた彼らにとって、安穏な生とは「死に場所を失う」ことに等しかった。
生きていても意味がない。異質な人々と共に暮らすのが辛い──。
かつて斬首、火炙りなど、どんな形であれ「殉教」は神への忠誠を一瞬で示す手段だった。それを失った今、これは果たして幸運なのか、不幸なのか。
「殉教」とは、自殺を禁じられた信者たちが編み出した、いわば”合法的な自殺”だったのかもしれない。
三島由紀夫の憂鬱
この古代の苦悩は、20世紀後半の日本にも似ている。戦争が終わり、「平和」という名の倦怠が社会を覆った。精神を蝕む悪霊と孤独に戦う──。
作家・三島由紀夫は、何度も似た趣旨の発言を残している。
「たしかリルケが言っていたと思いますが──現代では人の死が小さくなった。交通事故であれ病院で死ぬのであれ、一個の細胞が死ぬように、静かに、卑しく死んでいく。人が自分のことだけに生き、自分のことだけに死ぬ。それは、非常に卑しいものを感じさせます。」
「卑しい死を卑しくなくする”大義”──それが今の世の中にはない。『葉隠』の著者でさえ、結局は畳の上で死んだ。英雄的な死は、生半可な努力では得られないのです。」
失われた大義
三島由紀夫が、自らの死に大義を見出そうとしたのは、おそらく「合法的に死ぬため」だった。それが戦時中のプロパガンダであれ、終戦後の空虚な宣伝であれ──。
確かに自殺は禁じられている。しかし「死を早める」こと、すなわち、熱狂と狂気の中で己を投げ出すことならば、不可能ではない。
原始キリスト教徒たちは、そう考えた(に違いない)。
日本の武士のように短刀を取らずとも、狂おしい信仰の熱意により、己を捨てることはできる。
そのとき、人を突き動かすのは、神への揺るぎない信念だった──これこそが、自殺を合法化する「大義」となったのである。
義人たちの闘い
『義人の書』(The Book of Jasher)には、アブラハムが王ニムロデに信仰を主張する場面が描かれている。
聖書の正典では「彼は主を信じた。主はそれを彼の義とした。」としか語られないが、『義人の書』ではより詳しく綴られる。
アブラハムは、父の家の偶像を斧で打ち壊し、それが王に報告される。呼び出されたアブラハムは、王の前でも信仰を曲げず、言い放った──。
「見ることも聞くことも救うこともできない偶像が、なぜあなたの神なのか? あなたたちを創造した主に帰るべきだ。」
アブラハムは王の怒りに触れ、多くの民衆が見守る中、烈火の炉に投げ込まれた。
この場面は『ダニエル書』にも似る。錬金術的な”火の炉”に、アブラハムは三日三晩焼かれたが、下着すら焦がすことなく生き延びたという。
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