中公文庫ではデカルトの『方法序説』に『情念論』と「書簡集」を合わせた盛沢山の内容が見られる;『情念論』は昔20代の頃読んだことはあったが、いま改めて読んで気付いたことなど書いてみようと思う。
デカルト先生の本は時代を超えて愛され、シンプルかつ透明感のある文体でもって学ぶ人を魅了する;ゆえに筆者もまた”デカルト先生”と呼びたくなるのである。
書簡集
まず20代の頃読んだとき感じたのは単純に”かっこいい”だった;まるでユークリッド『原論』のような無感覚・無感動の境地を謳歌する”正覚者”といった印象を勝手に持ったのであった。しかしいま読み直してみるとデカルト先生が手を付けた問題はそれほど単純ではない、と思われた。
そもそもこの書を著したきっかけは書簡やりとり相手からの要望にあった;そのいきさつも「書簡集」から読み取れる。また『情念論』はデカルト先生の最後の本でもあり、肺炎で死ぬ前年に出版されたのだという。
このことからも『情念論』は哲学者としてのデカルト先生のいわば集大成的な本であると言えなくもないではないか?すなわちここには非常に秘儀的な・奥深い内容が含まれていると思われる。
松果線
この本によると人間の”精神”は脳の奥底の松果線において人体と結合され、そこ以降は純粋に物質的な領域に入るのである。松果線であるとも大脳基底核であるとも、解剖学に従えばいくらでも厳密な定義は可能であるが、ともかく脳の一番奥深い部分で”精神”なる非物質的実体が人体なる完全に物質的な集合体に結合している、ということなのである。
だから、見るという物質的作用や聞くという同じ作用により、人体と精神の接触部分において精神に何らかの作用が及ぼされる、という理屈。物質的作用を及ぼされた精神は”動物精気”を身体に送り込み、これが人体に様々な情念を引き起こすのである。
動物精気
”動物精気”は17世紀の流行語なのだろうか;サドの本にもしょっちゅう登場するこの語は、人体を動かす原動力ともなり、情念によって顔が赤くなったり怒りによって硬直したり、激しい悲しみによって涙を流す原因にもなる。
特に興味深いのは「笑い」なる情念についての記述;人類が最も発するこの騒音というか、爆音というか、人体の一種の痙攣現象は、テレビ番組などでも数分おきに繰り返され、”ドハハハ”とか”ギャハハハ”なる他のいかなる動物にも似ない人類特有の音を発する。
同時に顔の筋肉が歪み、目が爛々と光り輝いて、嘲りというか、悲しみというか、何とも言えない名状しがたい観念を表現する。筆者が20代の頃読んで感じたのも同じであった。
ブッダ
ここで問題をひとつ提起させていただくと、不快な音(人体や機械などから発せられて空気を振動させ、感覚者の聴覚を刺激する)や不快な姿(光を反射した物質が色形として網膜に映し出された像)が、脳の奥底で精神に同じく不快感を与える場合である。
この作用によっては殺人や暴力が生じ、犯罪が起きるのだが、この不快な作用を精神が防御し、いわば城壁のような硬い鎧で防備した場合何が起きるのかということ;ブッダの教えに従えば怒りの言葉に怒りの言葉で答えなければ、怒っている人と自分を救う。
怒りに対して怒りによって答えれば、他人と自分をも損なう。このように精神の情念が物質を介して他の精神まで到達するものならば、たとえば連続殺人犯が見かけだけ大人しくて腹の中では相手を嬲り殺しにすることを考えていても、それに相手は気付かないのである。
こういう場合、鎧で防御された”殺す”なる情念は一体どこに行くのか;という問題。例によって勝手に判断させていただくと、その隠された念力は空気を振動させたり物質を動かしたりする代わりに、目に見えない元素の電子殻の中に入り込み、じわじわと対象の”精神”を害するに違いない。
まとめ
こんなところが改めて『情念論』を読んで特に考えさせられたことだ;たしかに人の情念なるものには常に人体の動きを伴う。心臓の鼓動の加速、血の気の引き・上昇、体液の各種内臓からの分泌、高ぶる神経などなど、面白く多彩に枚挙されている。
恐怖や恥や怒りや悲しみの情念(つまり人体の物質的な動揺)に対し精神が奴隷となるか、またはそれら情念の支配者となるか;もちろん誰でも支配することを望むはずである。そのために心がくべきことが、この本の中にヒントとして書かれている、誠に意義の高い書物である。