『大理石』は難解な小説であるが、第5部「死の劇場」は中でも一番難しい内容だと言える;今回はこの第5部を筆者なりに解読する試みとなるが、作者の”意図”は隠されておりただの”推測”で終わるかもしれない。
ストーリー
夢日記を付けていた主人公フェレオル・ビュックは、怪しげな海辺の塔を後にして旅立つ。フェレオルは荒涼とした地方に車で彷徨い込み、一人で歩いている骸骨のような老人に出会った。老人は”ボルゴロトンド”なる円形をなす村に向かっている途中であった。
彼の話では本日村でドナ・ラヴィニアという貴婦人の老女が死ぬ予定であり、老女は円形の村のちょうど中心にある、円形の劇場のさらなる中心に設置された円形の舞台の中心で、死を演じさせられるのだという。
招待状を見せられ、男でさえあるならば誰でも参列できることを知らされ、興味を持ったフェレオルは老人を車に乗せて送っていくことになった。
死の慣習
ボルゴロトンドには女が15歳になると死ぬときは必ず男たちの目に晒され、絶対に劇場の円の中心でないと死ぬことを許されないという、古くからの慣習があるのだった。つまりこの村では15歳が女として認められる年齢で、それまではどこで死んでも構わないのだった。
死の劇場に入ることができる男性の年齢も法律で定められていて、ちょうどポルノ映画の成人指定のように子供は見ることができない。男が死の劇場に入れる年になると、同時に淫売屋へも行くことが許されるのだという。
フェレオルが向かったのは、このような法律の定められている非現実的な慣習の強く根付いた村であった。
二つの構成
この小説の大部分は二つに分けることができる;一つは村へ向かうまでの道中にある、死の舞踏をかたどった象徴的な景色である。もう一つは村と劇場の描写および、ドナ・ラヴィニアの死の演技(本物の)である。
このうち後者はやや長ったらしくて読者は疲れる。ここではドナ・ラヴィニアが男たちの目に何時間も晒されながら、ついに生き絶えたことを述べるに留めたい。これに対して前者はこれまでの幾何学に加え数論の要素が組み込まれた小説になっている。
岩群の輪舞
すなわち村への道のりは荒れた山道だったが、最初上り坂には人工的な荒削りな遺跡のごとき岩の群が置かれていた。大まかに言えば丸い岩と四角い岩で、丸い岩はてっぺんが少し凹んでいて、目と歯の位置に真っ赤な薔薇が描かれた頭蓋骨の絵が書いてある。
四角い岩についてはてっぺんが少し二つに裂けていて、裸の妊婦を片手に抱いた骸骨の絵が書いてある。答えを言ってしまえば丸い岩は愛による死の超越、四角い岩は地上的結婚による死への隷属であると考えられる。何となれば仏陀の教えを引用するまでもなく、結婚・妊娠・出産・そして生老病死は人の一生の定めであるからである。
さて道には2種類の岩の合計が必ず奇数となるように配置されており、まるで二つの要素が闘っているかのように、しかし必ず愛が死に勝利するように丸い岩が一個だけ多かった。そして車で走りながらそれらを眺めると、まるで死の舞踏(ダンス・マカブルと訳されているが)のように岩が輪舞を踊るのだった。
この不気味なダンスを見ながら山の頂上に達すると、今度はビルぐらいの高さの巨大な卵の建造物があった;卵には両面に裸の妊婦の浮き彫りがあり、二人とも同じ釘で磔にされ処刑されていた。これは死の刑罰である。
巨大な卵
頂上をさらに過ぎると下り坂になり、葡萄畑のところどころに守り神のように小さな石の卵が設置されていた。卵には巨大な卵と同じ十字架にかけられた二人の妊婦の絵が描いてあった。
一本だけしかない道は村に向かって螺旋状に降っており、村を天空から見るとオウム貝の断面図のようだという。あとは先に語った通り;二人は村の中心の円形劇場で老女が死ぬのを見る。
しかし観劇が終わったあと、フェレオルの心境には暗く不気味な変化が訪れていた。また一緒に来た老人も、劇を見た周囲の男たちも皆顔を背けあい、互いを避けるのだった。彼らの様子は自慰をした後の射精の罪悪感にも似ていた。
帰り道フェレオルは再び頂上の卵の所に到着し、下り坂で再び死の舞踏を見た。こうして第5部は終わる。
まとめ
救いようのない第5部はそのまま最後の「魚の尻尾」に続くが、この後味の悪さは言いようがない。作者はこの難しい小説に答えを与えてはくれない。
死の劇場の円形の舞台は闘牛場に例えられている。闘牛や女の死を眺めることや螺旋形の都市といったイメージは、よくマンディアルグ作品に現れる。短編「薔薇の葬儀」、「螺旋」、ポルノグラフィ小説「イギリス人」などを参照。