映画『π パイ』レビュー|ダレン・アロノフスキーの狂気と神秘に満ちたデビュー作

視聴覚の墓場

『π パイ』ダレン・アロノフスキーの鬼才デビュー作を振り返る ブラック・スワン、レスラー以前の“原点” π(パイ)=円周率という名の迷宮

ダレン・アロノフスキーを最初に知ったのは、この『π(パイ)』という白黒映画だった。

公開は1998年末。全編モノクロ、狂気の数学者、脳にドリル──ジャンルで言えばカルト映画に分類されるだろう。

けれども、デヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』のような“わけのわからなさ”とは違い、『π』にはある種の明瞭さと、きちんと物語がある。

数学者の脳を焼く「円周率」という魔物

タイトルの「π」とは言わずもがな、円周率のこと。

主人公の天才数学者マックスは、証券市場の数理パターンを追ううちに、自然界すべての背後に「π」が潜んでいるのではないかと信じてのめり込んでいく。

円周率は無限に続く数字。定まらぬ数を極めようとする姿は、狂気と紙一重。マッド・サイエンティストの香りが漂う。

パソコンオタクは“異端”だった時代背景

舞台は1990年代末。当時はまだインターネットが一般に普及する前夜。

パソコンは数十万円する巨大なマシンで、ネットはISDNやダイヤルアップ。スマホはおろか、携帯電話すら持っていない人も多かった。

「パソコンに何時間も向かってる人=オタク」というレッテルが、まだ色濃くあった時代。

そういう時代感を考えると、『π』の主人公が部屋にこもって、コードだらけの自作マシンをいじっている姿はかなり「先取り」していた。今でこそ誰もがスマホの奴隷だが、当時はこの手の世界は明確に“異世界”だった。

『レスラー』との共通点──人間の破滅と再生

アロノフスキーといえば、のちに『レスラー』でミッキー・ロークの復活を演出したことで知られる。

しかしその原点には、やはりこの『π』がある。

白黒映像、極限まで追い詰められた主人公、ノイズ混じりの電子音楽、そしてラストの破滅的な解決。

スタイリッシュで不安に満ちたこの世界観は、彼の映画作家としての核だったのだろう。

ストーリー:πを巡る知と狂気と宗教

天才数学者マックスは、ある時「216桁の数字」に市場を支配する鍵があると気づく。

同時に、ユダヤ神秘主義=カバラの集団が彼に接触してくる。

彼らはその数字が「神の真の名前」だと信じ、マックスの脳内の情報を手に入れようとする。

結果、マックスは知の極限を越え、自らドリルで頭蓋に穴を開けてしまう。

──もはや数学も、神も、自然法則も、理解しようとする行為そのものが狂気だった。

すべてを断ち切った彼は、最終的に「痴呆」へと至る。何もわからず、何も恐れず、ただ穏やかに日常を生きる男へ──。

ガイガーカウンターとオウムガイの貝殻

この映画には衝撃的なシーンが数多くあるが、私が最も心を打たれたのはある静かな場面だ。

都会の荒れた海辺。マックスは疲れ果て、波打ち際に腰を下ろす。

放射線を測定するガイガーカウンターのチリチリという音。波の音。カモメの鳴き声。

彼は波打ち際に流れ着いた貝殻を手に取り、螺旋をじっと見つめる。

それは、あまりにも美しく、あまりにも自然な「π」だった。

この場面で流れるBGMがまた絶品で、神が作った“答えのようなもの”に、疲れた魂が触れる瞬間のように感じた。

まとめ:見るべき理由

『π』は派手なエンタメではない。ストーリーも抽象的だし、白黒映像で、展開もひたすら重い。

だが、人間の知の限界を問う作品として、また「理解することは幸せか?」という問いを突きつける作品として、今こそ見る価値がある。

囲碁のシーン、師匠ソルとの対話、そして最後の静かな孤独──

すべてが記号でできている世界に生きる私たちへ。

この映画は、ひとつの答えではなく、問いのかたちをしている。

π<パイ> デジタルリマスター(字幕版)

コメント

タイトルとURLをコピーしました