概要
この本は空海の書物中入手しやすい部類に入る。筑摩書房『空海コレクション』の3と4は上下セットで収録、また岩波書店『日本思想体系』5は一冊で原文・漢文訓読を収録し、凄まじく詳しい註釈と補註・解説付き。
今回用いたのは岩波版の古書でありハードカバーの重い本であるため、書見台に置いてじっくり取り組んだ。だがあまりに熱中したため後半頭に血が上って大変だった。それだけ面白いということだが、これを読む前には多少のトレーニングが要る。
まず『摩訶止観』は必読。これは『周易』『荘子』並みに幽玄な本で、前もってこれを読んでいれば空海の文章にも耐えられる。あと空海24才の処女作『三教指帰』。『聾瞽指帰』の名で知られている。前者は後者を校正したものとされる同一の作品。
ちなみに『十住心論』を簡略化したのが『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)であるとのこと。『空海コレクション』1にはこれを収録する。このシリーズはページを覗いた限り訓読、親切な解説が付いていて価値がある。現代語訳は経典などもそうであるが、もはや原文の香りを失うため、どうしても最低漢文訓読が欲しいところ。
内容
ではこの難しそうな題名からして一体どのような中身なのか、1ページめくる前からゾクゾクする。まず「秘密」だが、これは現代的意味での「秘密」ではない。我々の使っている日常語はもうすでに空海の生きていた時代の言語ではない。
漢字もその意味も用法も、本来の奥深い用いられ方を喪失し、180度、あるいは360度、あるいは3回転、あるいは八の字を描き、捻じ曲げられている。
さて一枚目をめくる。ページ両側に渡って原文の漢文そしてこれが主眼の訓読、小さな語句註釈がびっしりと埋まる。古典漢文そして漢文とは何か、一通りトレーニングを積まないと入っていくことができない紙面である。
ここまで述べたところではこの本を読む前に、仏教辞典を片手に一通りの教養は身につけていなければならないということはお分かりだろう。
十住心
「曼荼羅」はただの絵ではない。この言葉には様々な意味がある。究極には自分の人体や自分が住んでいる田舎の風景も曼荼羅である。さて一番気に掛かるところの十の住心とは何か?この言は中国の密教文書、『大日経』(胎蔵界曼荼羅について説く)『金剛頂経』(金剛界曼荼羅)に代表され呼ばれる経典シリーズから取ったもので、空海の創作言語ではない。
(※胎蔵界・金剛界曼荼羅は本来別の密教経典で説かれる別個のもの;両界曼荼羅をセットで考えるのは恵果阿闍梨の発案だが中国で流行らず;ただ空海が日本で成立さす、つまり日本独自のもの。某学術書より)
それは聖徳太子の義疏と呼ばれる解説本と同様に、飛鳥・奈良時代の太子スタイルを引き継いでいる学術書なのだ。つまり太子のように多大な密教経典の本文の引用とその解説より成り立っている。
空海自身の詩人的オリジナリティは各章の冒頭にのみあり、スタートは完全創作戯曲的作品『三教指帰』ばりの文体である。
私の見る限り、日本人で独創性をもちかつ高度な哲学的知見を持つのは弘法大師のみであり、師が偉大なればなるほど弟子も優れる。だから真言密教系の子孫はハイレベルなのだ、と言える。(以下次回へ続く)