今回は少しエッセーぽい哲学論考になります。 😉
理性
ヘルメス・トリスメギストスはその教説の中で「言葉はある地点まで魂を導くが、真実まで到達させることはできない:だが理性は偉大である。理性が真実まで導いてくれる」と語っている。これは真実が言語で表現・伝達不可能なものであることを表している。
つまり言葉は真実という太陽に近づくにつれ燃え上がり焼き尽くされてしまう。その状態は一種の思考の白痴化状態に近い。同じくソクラテスは死の法廷における弁論で「自分は何も知らない、ということを知っている」と述べた。
告白
ここは管理人のブログ;砂場で一人遊びする子供の王国;裸の王様の自由の国。私は告白する、私は大馬鹿で、知ったようなことばかり書いていても、実はその言葉の意味も知ってはおらず、ただ言葉の遊びをやっているに過ぎないことを。
学者でもないのに難しい本に興味本位で手を出すが中身は1%くらいしか理解できていない。かと言っていっぱしの俗物にもなれない片端のような人間だ。しかしここでは好きなことを書かせてもらうとしよう。
幼児
仏陀によれば悪魔は6つのものによって人に接触するという;5つはわかりやすいのだが(というのはそれは5つの感覚だから)、6つ目のものすなわち「心」なるものがある。このことは男性の情欲を例にとって説明できる。
信憑性を高めるように私個人の例をあげる;すべての事物には始まりがあり、始まりがあるところには終わりもあるはずである。情欲の終わるところ、それがニルヴァーナではないかと私は考え、私の最初の情欲の発端を辿ってみた。
それは記憶から引っ張り出されてきて現れた;すなわち”ゴレンジャー”という5人組のヒーローもののテレビ番組があり、4歳くらいの時にゴレンジャーの枕カバーを使っていたのだ。その絵では桃レンジャーの股間が大きく「く」の字に拡げられ、丘の部分がもっこりとしていた。
4歳の子供は恐ろしいことに桃レンジャーの絵の股間部分を指で擦った。無垢の幼子が手マンするとは。。。!何の知識もないのに、自然の衝動がそうさせたのだ。あまり覚えていないが枕を抱きしめて布団を転げ回ったりもしたかもしれない。
悪習
次にオナニーという”悪習”について。ページが限られているのでその発端は明かさないでおく;ただ”悪習”のメカニズムをここに述べるにとどめたい。
何より情欲が起こる元となるのは視覚である。視覚は視床という脳に結合された眼球から生ずる。つまり3次元の中を動き回る「女の尻」等の情欲の対象(動画でもよし)を眼球が追いかける。筋肉質の腱で脳みそと繋がれて、キョロキョロと動く。
すると脳から性的興奮が首の太い神経を通って右手とペニスに指令を送り、オナニーが始まるというわけだ。だからもし首がなければ身体に指令は行かないからオナニーは不可能である。また眼球がないか腱が痛いか疲れるかして動かせないなら情欲が生ずる機会は減る。
問題は6つ目のものである”心”である。眼球が情欲の対象を捉えようとする以前に心が情欲の対象を”想像(イメージと呼ぼうか)”しているからである。つまり”心”が情欲の”想像”から解き放たれない限り、情欲の終わりはない。これはオナニー覚えたての頃は想像による興奮が主だったことを考えれば理解しやすい。
心
結論として人間は死ねば情欲から解放されるのではない。確かに首や手やペニスや、眼球や脳や頭は無くなるだろうが、”心”は滅びないからだ。情欲に染まった”心”は死後も染まったままである。よって死ねば浄められると当てにするのではなく、死ぬ前に浄められる必要があると考えられる。