古代ギリシャ哲学における確固不動の地球を中心とした "天動説" をもとに、アリストテレスの思考はさらなる高みへと上昇する。
◯参考;→【アリストテレス】哲学:ばっさり解説〜天動説と宇宙論
7つの天球と恒星天
「第8天」というものは星座がひしめく恒星天球をさす;以下土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月の7つの天界が地球を巡って運行する。私たち2足で直立した人間は頭を天へ向けて高く掲げ、見える世界(コスモス)を無限の思考により包括することができる唯一の動物である。
夜、暗くなると星が現れるが最後に見え出すのは恒星天である。またその下の天界は雲が多少多くても見えるのに対し、恒星天は雲があると見えない。このことによっても星座のある第8天が宇宙の最外郭とされたのだろう。他の星が全然見えなくても月だけは見えることがある。月が一番低い天界だということはこれで理解できる。
人の肉眼が捉えることのできる世界の最外郭が数知れぬ星座群であるならば、これらの天球はどうやって動かされるのであろうか。第8のものを動かす第9のものがあるはずである。
「自然学」
ダンテの『神曲』では恒星天の次に原動天という天界があり、それぞれの天界に対応する9つの階級の天使が燃える火の輪を形造っている;それは詩の中の話であるが、アリストテレスの「自然学」でも説かれていたように哲学的に考えても第9番目の何かが必ずあるはずである。
なぜならば動くものはすべて何かによって動かされるから。ただしその動かすものはもはや肉眼では見えず、理性と知性によって思考することしかできない。「形而上学」は必然的に目に見えないものを論ずる内容となり、500ページもある本の内容についていくのはかなりの忍耐を要する。
◯ダンテ『神曲』「天国篇」まとめ→ダンテ【神曲】「天国篇」〜まとめのまとめ〜
第9のもの
本の中で言及されており最も重要と思われる”離れて存する不動なる実体”なるものについて、忙しい日々を立ち止まって少し考えてみたい;
”離れて存する不動なる実体”とは、言ってしまえば神なのであるが、なぜこのものがなければ可視的宇宙が成り立たないのかを述べる。現代科学が万有引力や人工探査機の写真を持ち出そうとも、空の星々をただの石の塊だと言おうとも。
まとめ
動くものは何かによって動かされるとすると、その動かすものは不動でなければならないのである。でないとそれを動かす他の何ものかがあり、そうやって無限に遡りいつまでたっても運動の始原に行き着かないからである。であるから第8天は第9のものにより動かされ、それは目に見えない実体なのである。
その第9のものは恒星天を観照し続けることで明瞭となるという。そのことは「ヘルメス文書」でも弟子に教えられている。数学の方程式のxを求めるのに似ているが、なかなかそう簡単にはいかない。
アリストテレスの「形而上学」は答えを導いてはくれるが、議論の余地のないことまで分析するから筆者は半分以上速読で読み飛ばした。デカルトの原理が ”我思うゆえに我あり” なのに対し、アリストテレスのは "同じものが同時に有りかつ有らぬことは不可能である" なのだ。
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◯参考:→【ヘルメス文書】ヘルメス・トリスメギストスの著作とされる謎の文書とは
◯デカルトまとめ→【ルネ・デカルト】の本〜感想・レビューまとめ