哲学

【法華義疏(ほっけぎしょ)】聖徳太子の『法華経』註釈書〜飛鳥時代から届く仏教の神力

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概要

使ったテキストは岩波文庫版『法華義疏』上下である。各々370ページ位あるボリュームで、現代文ではない。太子の原文の漢文を読み下した古来のスタイルで、「法華経」とその註釈が果てしなく展開される。

感想としては、この本は、これまでに読んだ中で最も集中力と注意力を要する書であり、最も完読に根気の要る書のうちの一つであった。量的・ボリューム的にさほどではないにせよ、太子の古代の語り口と「法華経」の難解極まりない言い回しとが、出口の見えない迷路に迷い込んだかのような錯覚を与え、しばしば途中で挫折したくなる。

註釈

「法華経」については一度記事にしたことがある。参考に以下がリンク⇨https://saitoutakayuki.com/tetsugaku/myouhou-renge/

さてこれに対する太子の註釈はどのような内容なのか:特徴として一、二、三、四、五、六、七、八、十などの漢字の数がものすごい確率で出てくる。序盤はほぼ文章の半分がこれらの数字である。なのでプラトンの対話篇かキリスト教の三位一体論でも読んでいるような気がしてくる。

一〜三が頻出する理由は、大乗仏教が小乗の二もしくは三の上に成り立っているからである。また太子の註釈と言っても、現代的な文章や内容を想像してはいけない。私も太古の時代に仏教という大きな神力に直面した聖徳太子が、法隆寺で夜夜中、経典を開きながら思案しているかのような様子を抱いていたのだが、それは間違いで、『法華義疏』を書いた時には、すでに太子は相当の信仰と勉強を積んでいたのであり、そのような中で記された本なのだ。

功徳

「法華経」にはこの経典を唱えたり、人に説いたり、書いたりした人への大きな功徳について書かれている。そしてそれこそが大乗の心なのである。なぜならもしその広く大きな生き物たちへの慈悲がなければ、膨大な数の写本や経典は書かれず、我が国にもこれほどまでに浸透している仏教が、人々の悩み苦しみを鎮めることはなかったのである。

因果応報という言葉がある。これは仏教の教え。すなわち良い行いをすれば良い報いが、悪い行いをすれば悪い報いが、その業を行った人に返ってくる。身・口・心をもっていかなる悪をもなすことなく、常に生き物たちの平安を願う。その心が大乗の教えではなかろうか。仏ではなかろうか。

大乗

私もこれまでは増上慢だった。三乗の車とは、声聞、独覚(縁覚、辟支仏)、菩薩だそうだ。これらは少乗と呼ばれる。つまり小物なのだ。対して大乗なる車はその上を行く。その悟りは”阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)”「無上正等正覚」と呼ばれる。これが仏である。

少乗の修行者は悟っていないのに悟りを得た、と思い込み、倦怠に陥ってそれ以上を求めない。「法華経」はこれらの修行者に汝の悟りは悟りにあらず、と告げる。今こそ奮い立ち、「無上正等正覚」を求めよ、と。

まとめ

こんなところが私が「法華経」および「法華義疏」から学んだことだ。最後に聖徳太子の「法華義疏」についてだが、上巻の註釈がすごいボリュームで全然進行しないのに対し、下巻に行くに従って経典に対する註釈の量が激減し、短くなる。でなかったらこの本は上下では終わらず、30巻近くになっていたであろう。

まさか太子がサドの『ソドム120日』みたく飽きるとか、紙が足らなくなったとかいう理由でボリュームを調節したわけがないから、そのような構成にはそれなりの理由があるのだろう。それは読者の皆さんがご自分で読んで気付いていただきたい。

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